【治承~文治の内乱 vol.48】頼朝が勢力を急拡大できたのはなぜ?
はじめに
治承4年(1180年)8月に伊豆で挙兵し、わずか4ヶ月足らずで南関東を勢力下に置いて北関東をうかがうまでになった頼朝でしたが、果たして彼の勢力がここまで急拡大できたのはなぜでしょうか?
この疑問については従来、中央(都)の貴族たちによる支配に坂東の武者たちが反抗し、それら反抗勢力から根強い支持を集めていた河内源氏の御曹司である頼朝のもとに結集して急拡大したという見方などがありましたが、現在ではそのような階級闘争的な見方はほぼ否定されています。
また、『吾妻鏡』が強調するような坂東の武士と源頼義以来の河内源氏累代との関係が重んじられたからというのも、頼朝挙兵直後、彼に味方しなかった武士の中に河内源氏と深い繋がりがあった武士(例えば波多野氏、山内首藤氏など)がいて、一概にそう言えるものではなかったことは明らかです。
そこで今回は多くの日本中世史の先生方がこの疑問についてご見解を示されておられる中で、この時期の研究で代表される先生、お三方のご見解を紹介したいと思います。
頼朝が行った新しい政策に関東武士が魅力を感じたから
まず最初は石井進先生のご見解です。
石井先生は頼朝が行った本領安堵(味方した武士たちに所領支配権の保証)と新恩給与(敵対者から没収した所領の給与)という政策が当時の現状に不満だった関東武士を引き付ける最大の魅力だったとし、また、現状に不満を持った関東武士たちがかつて自分達の利害を擁護してくれた源義朝(頼朝の父)のような新たな指導者の出現を期待したことも勢力拡大の要因として挙げておられます。
頼朝が挙兵直後から本領安堵や新恩給与を行っていたことは『吾妻鏡』に度々記されており、さらに当時頭弁(※1)として高倉院政の中枢に関与していた吉田経房の知行国(※2)であった安房国では、現地からの飛脚の報告として、
とあって、勢力下においた国の土地や諸物資を略奪して、味方する武士に分け与えられていた様子もうかがわれます。
ただ、こうした頼朝たちの行動は拠り所になるものがなければ単なる略奪者、反乱者として暴れまわっているに過ぎず、急速に支持を得られることにならないと思われます。そこで石井先生はその拠り所として頼朝の貴種性と以仁王の令旨があったことを指摘します。
頼朝の貴種性、貴種というのは貴い血筋をうけた家柄ということですが、頼朝が中央貴族の出で、天皇(清和天皇or陽成天皇)からの血筋をうけた者であり、かつて関東武士たちが自分たちの保護者としていた源義朝の遺児中で最も年長にして正妻の出であったことにより、関東武士たちの尊敬を勝ち取る重要な資格を備えていたと石井先生は説かれます。
また、以仁王の令旨に関して、以仁王は令旨で時の安徳天皇の即位を認めずに新王朝の成立を宣言したとして、東国ではもはや新皇として見なされていたとし、その令旨を受けた頼朝は新皇を奉戴する名目を得られたとされています。
平家主導による地方統治は平家の非家人の反発を招いた
続いて元木泰雄先生のご見解です。
元木先生は野口実先生のご指摘をもとに、治承三年の政変以後に行われた平家主導による地方統治のやり方や東国での平家家人のあり方に着目された上で頼朝の勢力拡大を分析されています。
治承三年の政変というのは、平家が後白河の院政を停止、平氏政権とも呼ばれる平家主導の政治体制(高倉院政)を確立しました政変です。これに伴い、強引な手法で後白河院の知行国などを奪取し、自らの知行国を増やすなどしました。
そこで元木先生はまず大番役の問題を取り上げ、野口実先生の「平家が家人を組織して大番役を勤仕させる体制が出現し、その平家家人で一国規模で武士を動員、諸国奉行人(鎌倉政権下の守護のようなもの)と言われる者が各国に出現するに至って、その者が平家と関係の深い天皇の大番役の動員にも関与した」というご見解をふまえ、治承三年の政変によってこれまでその国の軍事動員権を持っていた者がその権限を失い、思いもかけず平家の家人の統率下に組織されることになったと指摘されます。
例えば相模国では在庁官人(※3)であった三浦氏が相模国の軍事警察権を掌握してましたが(※4)、治承三年の政変を経て相模国の軍事動員権は平家家人の大庭景親が掌握することとなり、当時の大番役の任期が4年であったことを考慮にいれると、本来公的権限で大番役を統率していた三浦義澄は在京中(大番役任期中)に軍事動員権を失ったことになり、以仁王の乱の勃発で大番役の任期が終わったあとでもしばらく「官兵」として京都に留め置かれて、大庭景親によって頤使(アゴで使われること)されたと考えられると述べられています。
このように大番役の統率を平家家人に限定した理由として、元木先生は治承三年の政変以後、大番役の重要性が大きく増し、重篤な警護が必要になったからとされます。
治承三年の政変、つまり後白河院を強引な手法で幽閉し、高倉院・安徳天皇の新たな王権(高倉院政)を樹立させたのは平家の軍事力であったことから、その王権の警護の対象が従来の寺社の強訴等に加えて、王権を否定する勢力による攻撃を想定したものに変化せざるを得なかったために重篤な警護が必要になり、その任を信頼できる平家家人に委ねたと説明されています。
なお、相模国の大番役の統率を担った大庭景親に関して、彼は相模国のみならず南関東諸国にも権限を有していたことが野口実先生によって指摘されています。
上総国では治承三年の政変によって知行国主が後白河院から平家に変わったと見られ(※5)、受領(上総介)として藤原(伊藤)忠清(平家郎等)が就任することになりました。そして、この忠清が上総介に加えて「坂東八カ国の侍別当(坂東一円の平家家人を組織した侍奉行)」として関東地方の統括を担い、大庭景親が「東国の御後見(『源平盛衰記』)」としてその補佐的役割を果たしたとされます。
確かに、大庭景親は藤原忠清から東国の情勢を諮問されていたり(『吾妻鏡』)、平家が上総広常の上洛を大庭景親を通じて督促していたり(『保暦間記』)、石橋山の戦いで景親を大将に相模・武蔵の軍勢3000余騎が催されたり(『平家物語』)しておりますので、これらが景親の「東国の御後見」としての権限を示す具体的事例として見られるのではないでしょうか。
このように平家は家人の権限を拡大させて、大番役の統率や地方の統治に当たらせていたことがうかがえますが、このやり方が平家の非家人の反発を招くに至ったのは言を俟ちません。
先述の上総国では知行国主が平家に変わって藤原忠清が上総介に就任したのに伴って、それまで在庁官人として一定の権限を持っていた上総広常は圧迫されることになりましたし、伊豆国では以仁王の乱以後のことではありますが、知行国主が源頼政から平時忠に変わって、国守が平時兼(時忠の養子)に、目代として平(山木)兼隆が現地に下向、さらに平家と近しい伊東祐親が台頭するに及んで、それまで伊豆国の在庁官人で軍事動員権を持っていたと思われる工藤茂光はその勢力を大きく減退させたと考えられます(※6)。
また、平家の知行国ではなくても安房国では長狭常伴が勢力を伸ばして、有力在庁官人であった安西景益や安房にも勢力を有していたと思われる三浦氏と対立しましたし、下総国では平忠盛(清盛の父)の娘婿であった藤原(千田)親政が権勢をふるい、有力在庁の千葉常胤を圧迫しました。
そうした情勢の中で後白河院の救援を旗印とすることで、平家主導の高倉院政を否定した頼朝が南関東各国の平家の非家人を結集させることに成功し、短期間で大勢力を持つに至ったと考えられています。
東国の平家家人らは連携できずに各個撃破されていった
元木泰雄先生は頼朝が平家の非家人を多く結集することに成功しただけが勢力拡大の要因ではなく、平家家人たち同士の対立などもあって連携が取れないまま頼朝方に各個撃破されてしまったのも大きな要因の一つと指摘されています。
頼朝挙兵当初こそ大庭景親を中心に相模・武蔵の軍勢3000余騎とも言われる数を集めて頼朝を敗走させたり(石橋山の戦い)、武蔵の軍勢が頼朝方の三浦氏の本拠・衣笠城を落とす(衣笠城攻防戦)など平家家人らは初動として一応の成功をみました。しかし、これ以降、関東の平家家人らは目立った連携を見せることなく、頼朝方に切り崩されていきました。
この平家家人が連携できなかった原因として元木先生は主に2つの要因を挙げられます。
一つは再起した頼朝らが上総国目代(平重国か)を討ったことにあるとするもので、坂東八カ国の侍別当であった藤原忠清(伊藤忠清)の代官として坂東の平家家人に影響力を有していた上総国目代が滅亡したことで、平家家人らは紐帯を失ってしまい、再起した頼朝勢の前にあるいは各個撃破され、あるいは降伏の道を選択したとされます。
そしてもう一つは平家が地方武士の対立について十分な認識がなく、平家家人相互の対立でさえ調停していなかった点にあるとされています。
例えば同じ平家家人でありながら対立していたのがよく知られているのは、前回(vol.47)でも少し触れましたが、上野国の新田義重と下野国の足利俊綱(藤姓足利氏)との対立です。
『吾妻鏡』養和1年(1181年)9月7日条には、かつて仁安年中(1166年~1168年)の頃に足利俊綱がある女性を殺害したことにより、下野国足利庄の領主職を足利庄本家(※7)の平重盛が取り上げ、新田義重にそれを与えてしまったことがあり、その時は俊綱が嘆き訴えるなどして結局返却されたという話もあって、新田氏と藤姓足利氏との間には遺恨があったことがうかがえます。
では、なぜ平家は在地(地方)に対する関心が薄く、家人同士の対立ですら解消しようとしなかったのでしょう。
これに関して、元木先生は平家家人といっても家人らは平家一門それぞれの有力者に個別に伺候していたことから、それが家人相互を分断した面があったとしますが、それよりも平家が主に都で家人を獲得、組織化したことに起因すると指摘されます。その例としては工藤祐経のような武者所(※8)における活動、大番役で上洛した際の接触、大庭景親のように清盛との個人的縁故、武田・新田・佐竹一族といった軍事貴族の在京活動といったものを契機として平家は家人を獲得していったとされています。
その上で、
と説明されています。
なお、元木泰雄先生は頼朝挙兵成功の背景として、義朝の調停者としての実績、つまり三浦、土肥、千葉、上総介といった豪族たちの利害を調整した実績は無関係ではないとしながらも、“三十年以上も昔のことであり、現実的な利害を重視する東国豪族たちが蜂起した決定的原因ではあるまい”と義朝の影響を一段低く見る御見解を示されています。
以上、少し長くなってしまいましたが、元木先生のご見解をお話しさせていただきました。元木先生の頼朝挙兵の成功の理由をざっとまとめさせていただきますと、
「頼朝は平氏の非家人を在地で体系的に組織し、連携不十分な平氏家人を各個撃破できたから」
ということになろうかと思います。
頼朝の圧倒的に高いステータス
最後は野口実先生のご見解です。
野口先生は元木先生のご見解の話の中にも度々登場しましたが、元木先生のご見解に近く、平家がとった地方統治によって坂東に元からあった在地領主間の対立を助長したことが頼朝勢力拡大の背景にあるとされています。
しかし、野口先生は上記のことに加えて、頼朝が短期間で大勢力となった背景には頼朝のステータスの高さがあったことを強調されます。そして、かつて「坂東の平和」ともいえる状況を現出した義朝のように地域の調停者として「貴種」の資格を持ち、再び「坂東の平和」を取り戻そうと坂東武士たちの期待を集めたのが頼朝であったと指摘されます。
この頼朝の貴種性を重んじる見方は最初の石井進先生のご見解に通じるものがありますが、石井先生と野口先生とではその“貴種”の捉え方が若干異なります。石井先生は主に頼朝の清和源氏、河内源氏、源義朝の嫡子といった血筋、血統をもってその貴種性を説明されますが、野口先生は頼朝自身の都でのステータスの高さをもって説明されます。
頼朝自身の都でのステータスの高さ、これは頼朝の官歴です。
頼朝は保元3年(1158年)2月に統子内親王(鳥羽院皇女、後白河院准母)の皇后宮権少進(※9)となった(『兵範記』保元3年(1158年)2月3日条)のを最初に、保元4年(1159年)1月29日には右近衛将監(※10)を兼務(『公卿補任』)、さらにその翌月には統子内親王が院号宣下されて上西門院となったことにより、上西門院蔵人(※11)に。またこの時、左兵衛尉(※12)に任官していたことが確認できます(『山槐記』保元4年2月19日条)。次いで平治1年(1159年)6月に二条天皇の蔵人となり(『公卿補任』)、平治の乱の最中の平治1年(1159年)12月14日の臨時除目では従五位下右兵衛権佐(※13)に叙位任官(叙任)されます。
特にこの右兵衛権佐という官職について、野口先生は『官職秘抄』の「(左右兵衛)佐」の項目にある“公達(高級貴族の子弟)はこれに任ず、諸大夫(位階が四位・五位の貴族)においては規模(名誉)なり”という一文を引用され、“頼朝が加冠直後にこの官職に任じられたという経歴は、流人となった後も、彼を「貴種」として権威付ける条件となっていたのである”と指摘されています。
『平家物語』などでは坂東の武士たちが頼朝のことを「佐殿」と呼んでいますが、これが実際に呼ばれていたとするならば、坂東の武士たちがこの右兵衛権佐という官職に権威を感じていた裏付けになるのではないでしょうか。ちなみに、『吾妻鏡』では挙兵前後の頼朝のことを「(前)武衛」と表記していますが、武衛は兵衛府の唐名(中国風の呼び方)で、やはり頼朝の右兵衛権佐という官職を意識したものになっています。
つまり、このような頼朝のエリートコースとも言える官歴が治承・寿永の乱で他に蜂起した源義仲や武田信義といった源氏一族を凌駕して、諸国の武士を編成できた要因の一つであったと野口先生は指摘されます。言い換えれば、頼朝でなければ短期間での大勢力構築はなし得なかったというわけです。
また、頼朝の母親が院近臣を輩出した熱田大宮司家出身であったこと(※14)や、頼朝が少年期に上西門院(後白河院准母)に祗候していたため他の源氏一族に比べて後白河院に近い存在だったこと、またその頃に短期間ながら持つことができた都での人脈なども自らの支持獲得に少なからず作用したようです。
おわりに
以上、長くなりましたが三人の先生の御見解をお話しさせていただきました。頼朝が勢力を急拡大できた理由について先生方が主張されることにそれぞれ違いはありますが、冒頭で触れました中央の貴族たちに反発して地方の武士が決起、東国では京都の朝廷と対決姿勢、独立志向が強かったという、いわば中央貴族v.s.東国武士という階級闘争的な見方、または京都v.s.関東のような東西対決的な見方は否定されるべきものであり、中央(都)の政情に大きく影響を受けたものであったことは三人の先生の御見解に共通しているのがおわかりいただけるかと思います。
また、今回ご紹介させていただいた先生方の御見解は主にこちらの書籍を参考にしております。今回の記事で十分に先生方の御見解を伝えきれていないと思いますので、もし興味や疑問をお持ちの方はこちらをぜひお読みいただくことをおすすめします。
では、最後にご参考までということで「治承4年(1180年)の主要武士割拠図」を貼り付けておきます。頼朝の挙兵に対して父子で対応が違う場合やいずれかが在京中などはあえて併記してあるところがありますので、その点ご了承ください(無断転載はご遠慮くださいませ)。
最後までお読みいただきありがとうございました。