【治承~文治の内乱 vol.43】 頼朝、下野国をうかがう
苦言を呈した男
前回お話しした佐竹攻めの論功行賞の一方で、佐竹方の残党10人ほどが頼朝の前に引き据えられました。これは先だって上総広常や和田義盛らによって捕らえられた者たちでした。
すると、その中の一人で紺の直垂を着た者が、顔を俯かせてしきりに泣いています。
頼朝はなぜ泣いているのか尋ねると、その者は答えました。
「亡き佐竹(義政)のことを思い、生き長らえる理由もないゆえ・・・」
頼朝は、ではなぜ義政が大矢橋で誅殺された際に命を捨てなかったのかと尋ねます。男は、
「あの時、義政の家人らは橋の上には参らず、主人のみが召し出されました。主人は討ち取られたが後日のことを思って逐電したのです。そして今こうして参上しました。精兵の本意ではありませんが、拝謁して申し上げたいことがあったからです」
頼朝はそれを言うことを許し、男は続けて、
「平家を追討するという計画を立てながら、御一族の者を滅ぼそうとすること、全くもってすべきことではありません。国の敵に対しては天下の勇士が一丸となって力を合わせるべきです。ところが何の落ち度もない一門を誅伐なさるとは。一体誰に命じてあなたの仇敵を討たせるというのですか。また御子孫の守護を誰がするというのですか!この事、よくよく思案なされませ。今のようなことをなさっていては、諸人はただあなたに恐れをなして、真の気持ちから従うことはないでしょう。それに、このようなことをして謗りを後世に残されるおつもりか」
頼朝は黙ったまま奥の間へ行ってしまいました。そこで上総広常は頼朝に助言します。
「あの者は必ず謀叛を起こすこと間違いありません。早く誅殺するべきです」
しかし、頼朝はこの男を許しました。そればかりかその男を御家人として取り立てたのです。
この事については頼朝の政治的な意図があったとする指摘(※1)がありますので、また後ほどお話しさせていただきます。
頼朝、小栗重成の館へ立ち寄る
この日(治承4年〔1180年〕11月8日)、頼朝は鎌倉へ引き上げようと常陸国府を発ちましたが、帰路につく前に常陸国の武士・小栗重成の館(八田館)に立ち寄りました。小栗重成は常陸平氏を出自とした小栗御厨(今の茨城県筑西市小栗)を本拠地とする武士です。
地図を用意しました。
これを見ると、この小栗重成の八田館は鎌倉の方角(この地図だと左下の方、南西方向)とは違った所にあり、常陸国府からだと筑波山を挟んだ北西方向、常陸国と下野国との国境が目と鼻の先という場所にあります。こうした位置関係を考慮に入れれば、頼朝の小栗御厨入りが帰路ついでに寄ったというものではなく、意図的に向かったものである可能性は大いに考えられると思います。
この小栗御厨のある八田という場所は、常陸府中から下野国の宇都宮を経由して奥州に至る道の途中にあり、この当時は交通の要衝の一つとされました。また、そうした理由から八田には町ができて、小栗重成のほか、益子氏や八田氏がその勢力の基盤とした土地であったと指摘されており(※2)、この地を押えるのは西常陸はもとより、下野国に睨みを利かせられる重要地点であったことをうかがわせます。
下野国の情勢
ここで当時の下野国の情勢を大まかにお話ししますと、まず下野国府付近(寒河御厨小山庄)に本拠を置き、下野大掾(掾は国司の三等官)として有力な在庁官人(国衙の役人)だったとされる小山氏、足利郡の郡司(国司管轄下で郡務をつとめた地方官)をつとめて、小山氏とライバル関係にあった藤姓足利氏、河内源氏義国流で足利庄を名字の地とする源姓足利氏(この頃は藤姓足利氏と競合関係に)、宇都宮明神(宇都宮二荒山神社)の神職にして、関東から奥州へ通る幹線道路(奥大道)の通過点、奥州への前線基地として重要だった宇都宮に拠る藤姓宇都宮氏、奥州国境にほど近い地域には那須氏などといった武士団が割拠していました。
その中で、小山氏は当主・小山政光の後妻である寒河尼が政光との子(のちの結城朝光)を連れて、頼朝のもとをすでに訪ねて来ていることから(※3)、この時点で頼朝方の勢力となったと見なされておりますが(※4)、当主の政光は当時、内裏大番役(内裏や院御所の警護役 ※5)として上京しており、その嫡子である朝政も富士川の戦いの際に頼朝方へ寝返ったことが『延慶本平家物語』に記されるものの、他の確たる史料ではそれが確認できないため、この頃の小山氏が頼朝の傘下に属す勢力だったのか、はっきりわかりません。
また、寒河尼の兄とされる宇都宮氏の当主・朝綱も、その嫡子・業綱(成綱とも)も在京して不在であり、さらに朝綱の弟とされる八田知家(八田氏は常陸国の武士)も在京中で去就不明でした。
もっとも、この頃、宇都宮・八田といった武士たちは朝廷や院に仕えることで都を中心に活動していたことがうかがえます。例えば宇都宮朝綱は「左衛門権少尉(もしくは左衛門尉)」「後白河院北面」に、八田知家は「武者所」という役職に就いて、仙洞御所(上皇や法皇の御所)や院の身辺の警備活動にあたっていたことが『尊卑分脉』『玉葉』『吾妻鏡』などの史料によってうかがうことができます。したがって、彼らは在京していることが多く、下野国の所領に留住することはあっても、活動の中心はあくまで都においてだったようです。
さらに、藤姓(藤原姓)足利氏に関してもわからない点が多く、当主・足利俊綱の嫡子である忠綱が宇治平等院の戦いにおいて、一族の者たちを率い平家方として参戦した話(『延慶本平家物語』第二中 一八など)(vol.9)や、『吾妻鏡』の治承4年9月30日条には、“足利太郎俊綱は平家の方人として、同国(上野国)府中の民居を焼払ふ。これ源家に属す輩居住せしむるの故なり”といった記述があり、また、養和1年(治承5年)閏2月23日条には、“また小山と足利は、一流の好ありといへども、一国の両虎たるに依りて、権威を争ふの処…”とあるように、小山氏とは同族ながら競合関係にあったことがうかがわれるため、頼朝にとっても敵対的な勢力と見なせる一方、この足利俊綱の上野国府付近での動きは他に対立する新田義重へのけん制だったと受け取ることもできるので、その場合、この当時平家方勢力であった新田義重と争っているという点で、頼朝に対しては中立的なものであったという見方ができることになります。
そして、もう一つの足利氏・源姓足利氏。
源姓足利氏は源頼朝の曾祖父(または高祖父)の源義家(八幡太郎)を共通の先祖とする河内源氏で、義家の孫にあたる源義康から始まる氏です。
この治承・寿永の乱の当時は、早世してしまった義康の子である義清か義兼が家督を継いでいたものと思われます。
義清は矢田判官代とも称せられて、八条院(暲子内親王)の判官代(※6)として以仁王の乱の際には以仁王方であったことがうかがわれ(※7)、義兼もその母親が頼朝の母(熱田大宮司・藤原季範の娘・俗に由良御前)と姉妹もしくは姪だったとされて、頼朝と血縁的に近い存在であり、しかも彼も八条院蔵人となっていました(※8)。
こうしたことから源姓足利氏も反平家勢力になっていた可能性がかなり高いですが、ただ、この頃の源姓足利氏の坂東における所領経営は危機に瀕していたことが指摘されています(※9)。
なぜなら義康の早世(保元2年〔1157年〕没)によって、当時まだ幼かった彼らは清盛や義朝と肩を並べるほどの父親の地位を継承できなかったためです。義清の矢田判官代という肩書の「矢田」とは丹波国矢田郷(京都府亀岡市矢田町)の郷名からついたもので、この頃義清はこの矢田郷を経済基盤として在京活動をしていたと言われています(※10)。
こうして見ると、下野国の諸勢力の去就は、小山氏が寒河尼の動きもあって頼朝方である可能性があり、源姓足利氏も反平家勢力だったと思われるものの、他は去就を明らかにしていない中立の勢力が大半を占めている情勢で、この時点では下野国が頼朝の勢力圏内とは言えない状況だったと思われます。
また、この下野国は隣国・上野国とも東山道沿線ということから密接に繋がっていて、その上野国では新田義重が自衛の動きを示し(※11)、源義仲(木曽義仲)が信濃から進出してきていました(※12)。両者とも下野国の情勢をうかがっており、いわば下野国は頼朝・義重・義仲の三者がそれぞれけん制し合うような緊迫した情勢であった可能性があります。
特に義仲に関しては、この時期、新田義重や足利俊綱の勢力を切り崩すことで、上野国や下野国といった国々を自身の勢力圏内へ組み込むことを目指していたと思われ、かつて義仲の父・源義賢と頼朝の父・源義朝との間で在地の武士勢力を巻き込みながら起こった兄弟同士での坂東における勢力争い(大蔵合戦)が再現されるのではないかという状況にもなりつつありました。
ちなみに、頼朝は小栗御厨へ来る前、常陸国府で頼朝の叔父にあたる源行家・義広(志太義広とも)の二人と会見しており(※13)、この2人がなぜ頼朝のもとへやってきたのかは記されていないものの、こうした下野国や上野国をめぐる緊迫化の情勢を見て、頼朝に義仲と争わないように働きかけたのではないかということも考えられます。
なお、この叔父2人について、この時点で頼朝の傘下に入ったとする見方(※14)がありますが、義広がこの後、頼朝方として活動していることを史料が乏しいために見いだせず、行家も翌治承5年(1181年)3月に、尾張・三河の勢力を独自に結集して官軍(平家軍)と交戦(墨俣川の戦い)しているので、両名は頼朝の傘下に入ったわけではなく、それぞれ独自の動きをしていたと思われます(行家は墨俣川の戦いに敗北後、頼朝のもとに一時的に身を寄せます)。
頼朝が小栗御厨に立ち寄ったねらい
さて、頼朝は小栗御厨へ立ち寄った後、直線距離にして20kmほどしか離れておらず、小山氏の本拠地にも近い下野国府へは向かわず、Uターンするかのように下総国へと向かいました。
もしこの時下野国が頼朝の勢力圏に入っていた、または掌握しようとするなら、他の坂東の国々でしたように国府へ入って下野国衙の機構を接収し、何らかの処置を施したはずですが、この時頼朝が下野国に入ったことは確認できません。
ではなぜ頼朝がわざわざ下野国境間近の小栗御厨に立ち寄ったのかということになるのですが、結局これは軍事的な示威活動によって下野国の諸勢力をけん制するとともに、常陸国と下野国とを繋ぐ重要な地点であった八田の地を自身の勢力圏として確実に押さえることが目的だったと見ることができます。
冒頭でお話しした、頼朝の前で泣いて苦言を呈した男、彼は岩瀬与一太郎という者で、彼の本拠地は小栗御厨の東隣、蓮華王院領中郡庄内の岩瀬(今の茨城県桜川市岩瀬)の武士であったとされていることから、そんな彼が許されて御家人に取り立てられたのは、こうした頼朝の西常陸掌握の一環であったことがうかがえるのです。