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【治承~文治の内乱 vol.36】 『平家物語』の描く富士川の戦い

今回は日本史上でも有名な戦いである富士川の戦いについてです。まずはよく知られている『平家物語』の記述に基づいてお話ししようと思います(『平家物語』は「延慶本えんぎょうぼん」を中心に「長門本ながとぼん」「源平盛衰記げんぺいじょうすいき」を参考にしました。あとこれは直訳ではありませんのでご了承ください)。


斎藤実盛さいとうさねもり、坂東の武者を語る

東国追討使(平家軍)は30000騎の官軍を率いて、道中の国々、宿々に宣旨せんじを読んでは日にちをかけて味方を募っていましたが、兵衛佐ひょうえのすけ(頼朝)の威勢を怖れて味方につく者はいませんでした。

追討使は駿河国清見関きよみがせき(今の静岡県静岡市清水区)まで下って来たものの、やはり国々の者たちは味方に加わってくれません。一方、頼朝の軍勢は日を追うごとに増え続けているといい、平家の将である維盛これもり忠度ただのりなどは斎藤実盛さいとうさねもりを呼び出して、戦の相談をするついでに尋ねました。

「そもそも頼朝の軍勢の中に、うぬほどの弓勢ゆんぜい(弓を引く力量)の者はどれほどいるか」

実盛は答えて、

「この実盛でさえ弓勢の者と思われますか。坂東武者の弓は三人張さんにんばり五人張ごにんばり。矢の長さは弓の大きさによるものですから、14、15つかあります(1束は人差し指から小指までの長さ)。相手の鎧の隙間を見付けては矢継ぎ早に射かけ、一矢にて二三人をも射落とします。鎧を二三領重ねたものを射させれば、矢の羽根の部分まで食い込ませて射抜く者が私が覚えているだけでも70、80人はいるでしょう。ともあれ無駄な矢を射る者はまずおりません。

騎馬も素早く進退するにも自在で、屈強な騎手どもがそれを乗りこなして、みな馬の鼻を並べるように駆けます。また、親や子、郎等ろうとうの者が死ねば、それを見届けるようなことは滅多になく、ただただ死人を乗り越えて敵に取りつこうとする不敵な者たちでございます。そして、どのような武士や郎等であっても、強い馬を4、5匹ずつ乗り換え用に持っております。

それに比べて京武者や西国の武士は一人が怪我でもすれば、その介抱に7、8人が引き退きます。騎乗する馬も伯楽馬ばくろううま(※)を乗り出したかのように4、5町(500m前後)ぐらいはしっかり頭を上げていますが、さらに駆ければ頭を下げて疲れてしまいます。東国の荒武者に馬ごと一当てされるものなら、その状態でどうして敵に立ち向かうことができましょうか。

坂東武者10人に京武者100、200人を差し向けても対抗できると思えません。とりわけ源氏の軍勢は20万余騎と聞いており、御味方の軍勢はわずかに30000余騎ほどでしょう。同じ軍勢の数でも敵わないのに、なお敵勢の4分の1(6分の1もしくは7分の1ですが出典どおりにしました)でございます。

彼らは東国の国々をよく知っておりますが、あなた方はよくご存じではありません。もし追い立てられるようなことにもなれば、ひどいことになるでしょう。

現在源氏方へ加わる人々の名前を粗々あらあら承るに、我々が敵対するべきと思えません。『急ぎ東国へ下向されて、武蔵国や相模国に入国し、両国の軍勢を催して長井の渡しに陣を取り、敵を迎撃しましょう』と再三申し上げていましたものをお聞き入れくださらず、頼朝に両国の軍勢を取られてしまった上は、この度の戦に勝つことはできないでしょう。そうかと言って、この実盛が落ち延びて戦をしないと思っているわけではありません。この実盛だけであっても戦はするつもりです。しかし、私は右大臣殿(※)からの御恩が深い身でございますので、今一度右大臣殿にお会いして暇を乞い、きっとその許しを得てから急ぎこちらへ戻って討死させていただきます」

と、やがて1000騎の軍勢を分けて京へ帰り上っていきました。

※博労馬…博労ばくろう(馬の売買をしたり、馬の病気を治したり、調教したりする人)が売りつける馬で、疲れやすい馬の代名詞とされています。
※右大臣殿…この当時の右大臣は『玉葉』の著者としても知られる藤原兼実ふじわらのかねざね(九条兼実)です。


平家方の動揺

大将軍(総大将)の維盛は、恐れをなして心弱く思いましたが気を取り直し、

「実盛がいない間は戦ができないなんてことはない。いざそうであるなら、(実盛の申す通り)足柄山をうち越えて坂東八カ国にて戦おう」

と述べて他の将たちも気持ちを逸らせましたが、藤原忠清ふじわらのただきよ(伊藤忠清とも)は、

「坂東八ヶ国の兵はみな兵衛佐ひょうえのすけ(頼朝)に従ったと聞いております。せめて伊豆・駿河の者どもが(味方へ)参るべきですが、いまだ参ってきておりません。われらの軍勢は30000余騎とは申しますが、用にたる者は200、300人によもや過ぎることはなく、むやみに足柄山を越えてしまうのはかなりの悪手でしょう。ただ富士川を前にして敵勢を防ぎ、それが敵わないとなれば都へ帰り上って軍勢を召集したうえで再び東国へ下向なされませ」

と一同を制止したため、人々は、

「大将軍(維盛)の命令を背くことがあるか」

と反発しますが、忠清は重ねて、

「大将軍の命令を聞くのも場合によることもある上、福原を出発されたとき、入道殿(清盛)が『合戦の次第は忠清が計らい申したことに従うように』とまさしく仰せになられたではないですか。それを(方々も)お聞きになられていらっしゃるものを」

と、清盛の言葉を盾に取って、なおもこれ以上の進軍を勧めなかったため、人々は一人駆け出すわけにもいかず、その場に留まって、ただ目を見合わせて敵勢の出現を待ちました。


源氏方の使者が斬られる

10月22日(※)、兵衛佐(頼朝)は坂東八ヶ国の兵を招集して足柄峠を越え、木瀬川(黄瀬川きせがわ)に陣を取りました。侍、郎等、乗替え用の馬を引き連れる者を伴って、騎乗するものは185,000余騎とその兵数を記し、その上甲斐源氏が一条忠頼いちじょうただよりを主な者として20000余騎の軍勢で兵衛佐に加わりました。

※10月22日…『吾妻鏡』では黄瀬川着陣を10月18日としています。

平家の軍勢は富士の麓に引きあがって、平張り(※)した陣幕を張って休んでいましたが、そこへ頼朝からの使者がやって来て、

「親の敵と会えることは極めて稀なことで、なかなかないことでありますが、近ごろこちらへ下向されるとのことで、喜んでおります。明日は急いで会いに行かせていただきます」

と伝えてきたのです。

頼朝の使者は雑色ぞうしき(※)であった新先生という者で、お供として当色とうじき(※)を着せた者を8人連れて、平家の人々の陣にそれぞれこの頼朝の言葉を告げまわったんですが、誰一人それに返答してくれる者はいません。
そこで新先生は困って仕方なく返事を待ちましたが、この返事がもらえることはついにありませんでした。平家の者がこの新先生の一行を捕らえ、一人ひとり首を切ってしまったのです。

※平張り…陣幕の張り方の一つで、屋根部分を平たく布で張る方法です。
※雑色…身分が低く、主人の身の回りの雑用をする人。雑色は多様で雑用係の下級役人なども指す場合があります。
※当色…本来は位階に応じた服の色を指しますが、ここでは一定の身分である者であると見せるためにそれなりの恰好をさせたものと思われます。

このことを聞いた頼朝は、

「昔も今も開戦を告げる使者を切るなどということはいまだ聞いたことがない。平家の運もすでに尽きたな」

と言い、ほかの武士たちも頼朝の言うとおりだと、ますます頼朝方に加わったのでした。


平家方、鳥の羽ばたきに驚いて慌てふためく

24日、明日は双方開戦と定めて、その日も暮れました。平家の軍兵らが源氏方の方を見渡せば、篝火かがりびが野山といい、里村といい、あちらこちらに灯り、それはまるで雲霞のない夜空の星のようでした。東方、南方、北方はみな源氏方で西一方だけが平家方の軍勢です。

そんな中、源氏方の軍兵が弦打げんうち(弓の弦を引き鳴らすこと)をして弓の弦の張り具合をみたり、鎧を揺すって不用意な隙間ができないようにしたり、敵である平家を罵ったりしていました。すると、富士の沼で羽根を休めていた水鳥たちがそれらの音に驚いて一斉に羽ばたき、その羽音がおびただしく響き渡ったのです。

バタバタ🐦️

平家の軍勢はこの音を源氏方が攻め寄せてきたときの声だと思い、搦手からめて(裏手)に回られては逃げられないと取るものも取りあえず我先にと逃げ惑い、鎧は着たけれど兜をかぶらない者、矢は背負ったけれども弓を持たない者、一匹の馬に二三人が取り付いて誰の馬ということは関係なく乗ろうとする者、繋いである馬に乗ってクルクル廻っている者がいるなど慌て騒いで、一人も残らず夜中に皆逃げ落ちていってしまったのです。

やがて夜が明けようとするころ、源氏勢20万6000余騎が開戦に先立ち、声をそろえて鬨の声を三度あげました。その声はまるで坂東八ヶ国を響かして、山の鹿、河の魚にいたるまで肝を消して心を惑わさないのはないくらい、おびただしいなどというのも愚かな大音量です。

ところが平家の方は鬨の声を合わせることがないばかりか、全く音もしません。源氏方は怪しんで人を遣わして陣の様子を見させてみれば、陣屋、陣幕をも引き払うことなく、鎧、腹巻、太刀、刀、弓矢、小具足まで無数に捨て置かれて人一人として陣にいません。
頼朝はこれを聞いて、

「このことは頼朝の手柄ではない。八幡大菩薩のお計らいである」

と、上矢うわや(※)を奉じて河内源氏の氏神である八幡神の加護に感謝したのでした。なんでも飛び立った水鳥の中に山鳩が多くいたとか。山鳩は八幡神の使者とされています。

※上矢…えびら(矢の入れ物)には征矢そや(実戦用の矢)が多く入れられているのですが、見栄えをよくするために表側に2本ほど鏑矢かぶらや(征矢に比べて太く長い大仰なつくりの矢)を差し加えていました。その矢を上差うわざしの矢、または上矢といいました。


平家、人々に嘲笑される

この東国追討使(平家軍)の富士川での惨敗は当時東海道の遊女らに、

富士川の 瀬々の岩越す 波よりも 早くも落つる 伊勢平氏へいじかな
(富士川の瀬々の岩を越す早い流れよりも、早く落ちてしまった伊勢平氏(瓶子へいじ)かな)

と、口遊びとして嘲笑されながら謡われたということです。

11月15日、東国へ下った維盛以下の官兵が京都へ入りましたが、昼間だと人目につくため、夜陰に紛れて入りました。30000余騎を率いて東国へ下った時は、

「昔よりこれほどの大軍勢を聞きもせず、見もしなかった。保元平治ほうげんへいじの兵乱の時、源氏や平氏が我も我もと大勢いたが、それでもこの軍勢の1/10にも満たなかった。まぁ、おびただしいことで誰が対抗できようか、今すぐに(敵を)うちなびかせようぞ」

と言われたものでしたが、それが矢を一筋も射ることなく、敵の顔すら見ずに、鳥の羽音に驚いて、

「兵衛佐(頼朝)の軍勢は多いらしい」

と聞き臆して逃げ帰ってくるとは。まったく情けないことです。

ちょうどこの頃在京していた少数の関東の武士は維盛に付き従って東国へ下向したのですが、小山おやま四郎朝政ともまさをはじめとする武士は平家に見切りをつけ源氏方へついてしまい、源氏勢はますますその勢力を拡大したのです。旧都(京都:平安京)の人々はこれを聞いて、

「昔より勝負事で相手を見て逃げ出す”見逃げ”というのがあって、それですら情けないというのに、今回のは「聞き逃げ」ではないか。討手の使(東国追討使)が矢合わせに先だって矢一本も射ることなしに逃げ上ってくるなんて、ああ、イヤになるよ。こんなことでは行末がはかばかしくいくなんてことはないな」

と、つまはじきをして非難したといいます。

また、どのような者のしわざなのかわかりませんが、平家を“ひらや(平屋)”、討手の大将・維盛が権亮ごんのすけであることからこれを家の”すけ(助)”とし、平家の棟梁は宗盛むねもりですから、これを家の”むね(棟)”と見立ててこんな歌を詠んだものがいます。

平屋なる 宗盛いかに 騒ぐらむ 柱とたのむ すけを落して
(平屋である 宗盛(棟)はどのくらい騒いでいるだろう。柱の代りにと頼みにしていた助を落としてしまって)

家の倒壊を防ぐには助(すけ)と呼ばれる柱の代わりに大きな木でもって支え直すことがあり、それをなぞらえてのものでした。

さらに平家の侍大将とも評される藤原忠清も非難されてこんな歌が詠まれました。

なんでも忠清は鎧を入れておくひつをそのまま置いてきてしまっていたということから、

富士川に 鎧は捨てつ 墨染すみぞめの 衣ただきよ 後の世のため
(忠清は富士川に鎧を捨ててきてしまった。それなら墨染の衣をただ着なさい、のちの世のために)

この歌は忠清と「ただ着よ」をかけてあって、武士はやめて、墨染めの衣でも纏ってもう遁世とんせい(俗世を離れること)しなさいと言っているのです。

忠景は にげの馬にや 乗りつらむ 懸けぬに落つる 上総しりがひ
忠景ただかげ(忠清の別名)は 逃げの馬に乗っていたようだ。戦場を駆けることもできないで落ち延びてきた上総介かずさのすけだよ)
(忠景は 鼠毛にげの馬に乗っていたそうだ。馬にかけることもできないで落ちてしまった上総国産のしりがいだよ)

しりがい(鞦)というのは馬具の緒所おどころで、馬の頭・胸・尾に繋げる緒の総称です。にげの馬を「鼠毛の馬」と「逃げの馬」にかけてあって、忠清の官職が上総介だったために、しりがいの産地であった上総国とかけてこのような歌が詠まれたのです。

果たして誰がこのような歌を詠んだのでしょうか。当時は奈良の法師(興福寺・東大寺などの僧)が平家に反抗的でしたので、そんな彼らのしわざだったのかもしれません。


清盛、大いに怒る

入道相国しょうこく(清盛)はこんなふうに人々にバカにされて大変悔しがり、

権亮少将ごんのすけしょうしょう維盛これもり)を鬼界きかいが島へ流し、忠清の首をねよ!」

と命じました。忠清は思います。

「こうなってしまっては誠に身のとがのがれることはでき難い。どのように弁明しても甲斐なき事であろう。いかがしたものか・・・」

ちょうど清盛のまわりに平盛国たいらのもりくにぐらいしか人がいないのを見計らって、忠清は清盛のもとに伺い言上します。

「この忠清が18歳の頃だったと思います。鳥羽殿とばでんに盗人が入りこんでいたのに人一人おらず、私が築地ついじを乗り越えてその盗人を捕まえて以来、保元平治の合戦をはじめとして、大事につけ小事につけ片時も君(清盛)のそばを離れることもなく、不覚を取ったこともございません。今度東国に初めて下りまして、このような不覚をとってしまった事、ただごとではないと思います。よくよく御祈祷するべきかと思います」

これを聞いた清盛は確かにそうだと思ったのか、この時はなにも言いませんでしたが、忠清の処罰は沙汰止みになったということです。


『平家物語』での富士川の戦いについて

以上が『平家物語』で語られるところの富士川の戦いです。多少補ってますが、話の筋はこんな感じです。ともあれ、平家軍(東国追討使)はまったくいいところがない状態で、これを戦いと言っていいのかわからないぐらいの惨敗を喫しています。

なお、『吾妻鏡あずまかがみ』では源氏方の追撃が行われて、源氏方の飯田家義いいだいえよしが息子を討たれながらも敵将である伊藤次郎武者という者を討ち取ったり、平家方の印東いんとう次郎常義つねよし鮫島さめじま(今の静岡県富士市鮫島付近)という場所で討たれたことが書かれているので、若干の戦闘は行われたのかもしれません。

この『平家物語』の富士川の戦いについては、歴史学者の川合康先生が指摘されておられるように、平家物語の一大テーマである「盛者必衰じょうしゃひっすい」の理に従って物語が進行していることもあって、この戦いに参加していないはずの斎藤実盛に語らせる形で平家の弱体ぶりを強調することによって平家が滅びゆくのは必然であったというような描き方をしていますので、果たして本当に平家が富士川でこのような醜態をさらしてしまったのか疑問が残るところです。

こちらは『平家物語絵巻』(林原美術館蔵)にある富士川の場面です。左半分はまず端にある富士山、その横に富士川、山林や川面には戦を避ける民、飛び立つ水鳥が描かれており、右半分は水鳥に驚いて逃げようとする平家軍の様子が描かれています。

この絵巻物は語り本系の『平家物語』(覚一本かくいちぼんなど)が題材となっているので、今回参考にしている読み本系の『平家物語』とは細かい点で描写が違っていますが、馬を繋いだまま乗り出そうとする人や兜をかぶらずに逃げ出そうとする人や遊女らを蹴散らして逃げようとする者などが細かく描かれています。


(参考)
上杉和彦 『戦争の日本史6 源平の争乱』 吉川弘文館 2007年
川合 康 『日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』 吉川弘文館 2009年
五味文彦・本郷和人編 『現代語訳 吾妻鏡 1頼朝の挙兵』 吉川弘文館 2007年関幸彦・野口実編 『吾妻鏡必携』 吉川弘文館 2008年
石井進 『日本の歴史7 鎌倉幕府』 中央公論社 1965年
松尾葦江編 『校訂 延慶本平家物語(五)』 汲古書院 2004年
麻原美子・小井土守敏・佐藤智広編 『長門本平家物語 三』 勉誠出版 2005年
美濃部重克・松尾葦江 校注 『源平盛衰記(四)』三弥井書店 1994年

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およまる
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