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偽善者?真の思いやりとは
偽善者。
本心からではない、うわべだけの善行を行う者
まさか自分は偽善者ではないだろう!
そう当たり前のように自分のことを思っていたが、ふと「果たして本当にそうか…?」と気になり少し考えてみた
いざというときに行動できない
私は子育て世代を対象とした仕事をしている。
対象者の健康や生活に関する悩みや困り事を解決するお手伝い、といった内容の仕事だ
まぁ仕事と割り切って対象者に接している人たちもいるだろうが、自分はできるだけ相手の役に立ちたいと思って仕事に臨んでいるつもりだ
けれど相手の役に立ちたい気持ちとは裏腹にいざというときに行動できない自分もいる
例えば、身近な友だちが困っていそうとき、素直に声をかけられない自分がいる
間違ってはいけないという呪い
それはなぜか?
おそらく間違った回答を出すのが怖いのだろう
相手は私を専門家(助産師や保健師など)としてみているのではないか?そうだとしたらしっかり根拠に基づいた答えをださなければ!と。
そんなことを考えていると、普通に友だちとして声がかけられなくなる
なんだか悲しいことだ
別にそれならそれで今自分が持っている知識や情報を提供すればいいのではないか?
まるで論文のようにきっちり根拠をあげる必要など殆どの場合求められていないはずなのに
それよりも大事なことは、相手を心から心配する気持ちではないのか?
私は結局、臆病な自分のせいで友だちに声をかけられずにいるのだろう
昔は何も考えずに、心から心配したから声をかけて手を差し伸べていたのに
真の思いやりとは
頭で考えることに慣れすぎて、心や気持ちを置き去りにしてきたのかもしれない。
専門家としての意見を求められるときには、
しっかり時間をかけて持てる知識と経験を相手に伝えればいい
友だちとして接するときには、心から動き、声をかけ手を差し伸べていい
大人になり、役割が増えたことで上手く自分を使い分けられなくなっていたようだ
母であり、妻であり、友だちであり、助産師や保健師であり、同僚であり…
でも、私という軸はブレずにいたい
真の思いやり(相手への想いから始まる行動)
を私という軸に据えておきたい
それが相手の為になっているかはまた別のはなしなので、ときには相手の迷惑になるかもしれない
それでもまず行動してみないことには迷惑になるかどうかすらもわからない
心から動く、気持ちから動くことを取り戻していきたい