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第5章 仏教の死生観とは何か
釈迦の覚りの普遍性
134頁から135頁から抜粋・引用・紹介
因縁は、たとえば十二縁起のような因果の連鎖のプロセスを辿り、最後は根本的な「無明」にまで至る。
「無明」とは、人間が持っている本能的というべき生存欲のようなもので、この根源的な次元にある真理を人間はまったく知らない、ということだ。
ここに人間の根源的な無知がある。
こうなると、釈迦の覚りは、もはや釈迦ひとりのものではない。しかもすべてが無常であり、相依相即して輪廻によってつながっているとすれば、ことは釈迦一人の覚りでどうなるものでもない。
「無明」を根本に抱き込んで、しかもその「無明」をいっさい意識することもできず(だからこそ「無明」なのだが)、そこから次々と漏れ出る煩悩の火に焼かれる人間存在そのものへと問題はつながっているのである。
「無明」を真に消し去ることはできまい。後に唯識論は、このもっとも根源にあるものを「阿賴耶識」と呼んだが、それは、通常の無意識よりもさらに奥深いもので、存在の深い底にある「阿賴耶識」をコントロールするなどということは不可能である。
そして「無明」が「阿賴耶識」に作用することで、それこそ人間という存在の業というべきものが生まれる。
かくて十二縁起のような因縁が生まれる。
人の心の根底に、あるいは存在の根底に「阿賴耶識」のようなものを見出した点に、仏教がいわば普遍宗教へと展開する基本的な理由があった。
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佐伯啓思さんの本をずっと読んでいますが、私にとって理解不能はことがらをいつもかみ砕いて、教えてもらっています。
般若心経を毎朝書いていますが、「無明」について、しっかり再認識することが出来ました(感謝)。
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