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死にかた論

第三章 「死」が「生」を支える
 尊厳とは「生」の側の論理
 「生」の拡張と「死」の忘却
 「生」も「苦」
 浄土はこの世にある
 AはAでなくしてAである
 水面の月
となっていますが、この中で「AはAでなくしてAである」を抜粋・引用・紹介します
75頁から76頁
 仏教が説く死生観は、一見したところ死を解脱とみ、極楽への往生を説き、生をただただ苦痛にみちたものとして否定するかのように思われがちであるが、それは違っている。
 やすらかに往生することが仏教の極意ではない。
 ゴーダマ・ブッダに戻ってもわかるように、仏教とは、もともと「よく生きる」つまり「生の充実」をはかるための哲学というべきものであった。
 ただ、それは、われわれが普通に考える「生の充実」とはまったく違っていた。
 近代人にとっては当然と思われている、欲望の最大限の充実や、活動の自由の拡張や、新奇な経験などをもって、「生の充実」とみるのとはまたく対極にある。

 仏教は、その種の「生の充実」はすべて否定する。そんなものは捨てろ、という。
 とらわれるな、という。その意味では、生は空虚であることを知れ、という。
 生とは、それ自体が苦であることを知れ、という。

 しかし、仏教の面白いところは、そのことを徹底して知れば、ものにはとらわれない自在の境地にあって、あるものをあるがままに楽しみ、分を超えようと無理することもなく(自然法爾)、安寧の境地で生きることができる、というのだ。
 仏教は、もともと苦行の果ての救済(解脱)を求めるものではあるが、その手前に、一種の処世術のようなところがある。
 解脱とはいかなくとも、日常の中で正しく生きる道を説く道徳的な面がある。 
 その実践こそが真の「生の充実」だという。すべてを捨て、諦めることで生が本当に輝く。
 「生」とは、「生の充足」をすべて捨て去り、諦めにおいて真に「生の充足」をえる、という。
 いってみれば「生は、生を捨て去ることで、生である」というのだ。生は一度、否定されて本当の生となって立ち現れる。
 
 いうまでもなく、これは例の『般若心経』の「色即是空、空即是色」と同じ論理であろう。
 『般若心経』はこういっている。「この世界(色)は存在しない(空)。そのゆえにこの世界(色)である」と。
 「いっさいの存在は、存在しない(無である)がゆえに、それとして存在する」といっているのである。
<略>
81頁を抜粋・引用・紹介
 こういう思想が日本の死生観の根本にあるのではなかろうか。死から生をみる。
 あるいは、死(無)を背後において生(有)を覚知する。こういう思想がある。
 それは、無我、無私として私を捨てことによってようやく可能となるのであろう 鈴木大拙の「即非の論理」がそこで作用している。大乗仏教は、日本人にこのような死生観をもたらしたのだ。

 とはいえ、いったい、自分を捨てるなどということが本当にできるのだろうか。
 自我を「無」へ送ることなどできるのだろうか。「私を捨てろ、無私になれ」などというが、とても容易なことではない。
 まして、「死を前提にして生を生かす」といっても、話はそう簡単ではない。
 私は、もう少し日本仏教に即して日本の死生観をみてみたいと思うのだが、その前に、もっと伝統的な、といういことは、とりもなおさず仏教以前から存在した日本の死生観を次章でざっとみておくことにしよう。

ということで、第3章は終わりました。
続いて第四章 日本人の「魂」の行方
を読んでいきます。

佐伯啓思

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クラちゃん
嬉しい限りです。今後ともよろしくお願いします。