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空海&最澄

『空海の風景』を旅する
第8章 空海と最澄から引用
 822年(弘仁13年)、最澄は56歳でこの世を去る。
 19歳で比叡山に登り、奈良仏教の旧仏教勢力と先鋭的に対立しながら、一大宗派を築き上げ、空海に先立ち平安仏教のリーダーとなった最澄とはどんな人物だったのだろう。
 今の世に残る最澄の筆跡、それらはいずれもくせのない丁寧な書体で書かれ、几帳面な性格をうかがわせている。
 その一つが空海が唐から持ち帰った経典や法具の名を記した『御請来目録』の写しである。
 無名の僧、空海が持ち帰った文物の目録を、黙々と写しとる最澄の姿を想像する。
 飽くなき学問的探求と、みずからの思想に対する妥協を許さない態度ゆえ、この無名の僧に教えを乞うことを決意するにいたった潔さには心打たれずにいられない。
 真言宗は空海以後、多くの俊才が出たが、しかし教義を発展させるという仕事は、ほとんどしていないように思える。
 空海が、完璧な体系をつくりすぎたせいではないか、ということである。
 空海と最澄とはさまざまな面で対照的であるが、この面でも逆であった。
最澄は唐から持ちかえった天台宗や越州の密教を、多くは整理しきれず、その間奈良仏教との抗争などで忙殺され、未整理でることを憂えつつ死んでしまった。
 しかしひるがえっていえば、そのことがむしろ後世を益したともいえるのである。
 たとえば天台密教の成立は最澄が死んでからのことであったし、また鎌倉の新興仏教の祖師たちが、最澄の持ちかえったものを部分的に独立させ、部分において深めたことなどを思うと、最澄のように、唐から請来した諸思想を完璧な一個の体系にすることなく――極端な言い方をすれば――叡山の上に置き去りにしたというほうが、歴史の発達のためにはよかったかもしれない、という意味なのである。
(『空海の風景』十九))より

司馬遼太郎の見方です。

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クラちゃん
嬉しい限りです。今後ともよろしくお願いします。