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【エッセイ】聞き手になるということ


8月終盤。

この暑さと感染の波はどこまでも続きそうで、喉元を通り過ぎるまでは熱いままで……。

涼しい秋風が、そっと肌を撫でたとき、

また、あれだけ暑かった夏が終わってしまったと、物悲しいような思いを抱くのでしょうか。

感染症が終われば、それまでの日常が嘘だったように、それぞれの日々を取り戻していくのでしょうか。

私の日常は、、

原稿用紙に書きつける間に、読書。。

今日は、三浦綾子さんの『塩狩峠』

キリスト教信者が「ヤソ」と罵られていた時代の話で、家庭まで引き裂くような、宗教への疑問や、家族、信者の葛藤部分に、ハッとさせらる文章が続いていきます、、

読書ばかりは「慣れ」がありません。

ページをめくるたびに緊張するし、ドキッとさせられることが多々あります。

「慣れる」という人間に備わった能力の前では、得た教訓もいつのまにか風化してしまうような気がして、、

文字や言葉にして保存するということの大切さを改めて、かみしめています。


✒ ✒ ✒

最近、小説の取材を細々ながら始めました。

リモートであったり、顔も声も不定の方からお話を聞きます。

ふと思ったのですが、、

顔が見えないというのは、その人の話を聴く上ではプラスに働いているような気がします。

特に、インモラルな実話のカミングアウトを初めてできたと、逆にお礼を言われることもあり……。

聞き手に徹するということは、ある意味で、自身が的確な的になるという事ではないかと思うのです。

知人、友人の話を聞くと、「マウントを取られた」という声をよく聞くのですが、みんな、自分のことを知ってもらいたい、分かってもらいたいという意識は強く働くのでしょうね。

私には、「マウントを取られた」と嘆く人も、逆に「マウントを取りたかったんだなぁ」と感じてしまいます。

私も、知らず知らずのうちに、マウントを取っているのでしょう。

小説や、詩、エッセイの執筆は、つまるところ、自分の欲求の核心をさらけ出しているようなもので、、

結局は、その人の「聴いてもらいたい」「話したい」「わかってほしい」の昇華の手段の一つなのではないかと感じます。

さて。

「聞き手」に徹する。

それは、話し手への抱擁であって、深い承認の最たる行為に思います。

その方の話す言葉を一つ一つ自分のフィルターへ通してゆく。

言い詰まったり、上手く言葉で語られなかった部分に、思いを馳せる。

ときには、適切な単語や文脈の中で、相手の言いにくい言葉を代用して提供する。

そうやって得た貴重なお話には、既に物語があって、誰もが、(他人からみたら壮絶な人生を)自分自身の物語のなかを生きているのだなぁと、畏敬の念すら感じてしまうほどです。

会話の中で、話したりないなと不服に思っていた自分の気持ちが、そっくりそのまま相手にもあるのだと実感しました。


YouTube、ティックトック、Twitter、Facebook、line、ライブ配信……。

表現、表現、表現と

奔流に飲み込まれるような時代です。

それでも、、

その人が表現しきれなかったものまで、言葉にし、形にして、引き出す。

聞き手とは受け手ではないのですね。

何が良い作品なのかは、まだちっとも分からない駆け出しものですが、、

書きたい気持ちを大切に執筆を続けていきたいと思います。

私を聞き手にして出さった方に、感謝の意を込めて。。


 2020年8月22日

【エッセイ】聞き手になるということ

taiti




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