やっぱり生きようかな
こんばんは、親子丼です!
本日は親子丼、なんとライター交流会に行ってきました!!嬉しい。なので、今日は原点を書きます。
そもそも、なぜ私が書くことを始めたのか。
私は小さい頃、今より太っていて、男子にバカにされることも多く、極度の引っ込み思案だった。
女子の友達は幸い少数いて、完全な孤立ではなかったけれど、やっぱり、バカにされることの方が心には残るのだ。
親も、私の話は聴いてくれていたけど、抑圧されることも多かった。怒られる時は、私の話を最後まで聴くことなく、とにかく頭ごなしに怒鳴られるような教育方針もままあったので、とにかく、話す力が身に付かなかった。
なんでも人のせいにするのはよくないから、
頑張って生徒会とか学級委員をやり、話術を身につけようとしたけど、1対1の話術が謎の恐怖心でなかなか身につかない日々が続いた。
親友にはペラペラと話すけど、大勢の場で自分の話をおもしろおかしく話せない。みんな、そんなもんだよね?!
そこで、私は話す力よりも聞く力を磨こうとした。いわゆる、質問力やうなずきなどのトークスキルだ。
本当は、私の話を聞いてほしい。でも、それを人に強要することはできない。
私が聞いてほしいと思っているということは、きっとみんなも聞いてほしいとおもっているはずだよね?(謎の同調圧力)
なので、聞く力を磨いて対面の会話は持たせ、聞いてほしい話は文字に起こすことにした。
すると、私は友達には困らないタイプになった。でも、冷静に真のコミュ力があったら、今でも文章なんか書かないんだよな。書くことは、楽しいけど死ぬほどめんどくさいから。
書くより、話してしまった方が断然楽にに決まっている。でも、私はそれではうまく伝わらないし、推敲(すいこう)しながら書くと、最後まで聞いてもらえるかもしれないから、最後まで書くんだよな。
文を書いていて良かったことは色々ある。褒められたり、自信がついたり。でも、1番嬉しかったのは、他人が私の前で泣いてくれたことだ。
我ながら意味不明である。聞く力〜とか言っておいて、結局自分の話を聞いてもらうために文を書いていたのに。他人が心を開いてくれた時の方が嬉しいなんて。しかも、他人が苦しくて泣いているのに、それが嬉しいとかひどすぎる。
でも、人が感情を自分にさらけ出してくれるのは嬉しいし、泣き顔というのは大人になれば人にあまり見せないものなので、私の前では羽根を休めてくれてくれるのは、やっぱり嬉しいものなのだ。
人が泣いてくれるの嬉しいとか思うようになったせいで、普段は明るい顔をしている人も、2人の時は暗い顔を私に見せるようになり、どんどん私の陰キャ化が進んでしまった。
そして、少しずつ1対1の話もできるようになった。
文章は会話だ。そして、言葉は人間そのものである。私は人間として、生きている。文を書くと、すごく、そんな感じがする。
涙が出るから文を書く。怒っているから文を書く。ドキドキするから文を書く。やる気がないから文を書く。(ならもっと更新しろ)
ここ4ヶ月、実はライターとして廃人化していた。つまりほぼ死んでいた。
新聞学科生としてジャーナリズム精神に基づき、私が心から、いやそれ以上に魂レベルで信用している市議会の活動を批判的に取材するよう言われて、憤慨を通り越し燃え尽きてしまったからだ。なぜか反抗したり、会話をしてどうこうしよう、という気がまったく起きなくなってしまったのだ。
でも、原点をつらつらと書いてみて、もうちょっとだけ頑張ろうと思うようになった。遅くても、なんとかしてみよう、やれるだけ。単純に、私の伝達不足だったのだから、と思うようになった。
良い文章ってなんだろうか。私にそんなもの、書けるだろうか。だって、こんな感情だけでは良い文章になんてものにはならない。
もっと語彙と、テクニックと、経験と、推敲が必要だ。
でも、感情がなかったら、きっと書けない。たぶん、私は書きたいと思わない。
読まれるだけの価値がある文章、そんなもの、書けなくても私はどうしたって生きている。
しょうがないじゃないか。
だから、これからは息をするように書ける人になりたい。