見出し画像

無神論を叫ぶ衰退日本

旧統一教会問題が日本の世間を騒がしました。

そのような中「だから私は無神論者なのだ」と叫ぶtwitterをお見かけしました。


本当に神が全知全能で慈悲深いならば、戦争やもっと身近ないじめが事実上起きてしまっている現実をどう説明できるのか。

少なくともそれらは神の御心ではあり得ない。

と言うよりも、神など存在しないと結論付ける方がむしろ自然だ。

よく見かける論調



と言った論調です。

こういった論調を唱えたくなる「心情」そのものには共感を持てます。

しかし、一方で、世界的に見てほとんどの国には宗教がすでに根付いており、堂々と無神論をとなえる人に大多数の賛同が得られる日本はむしろ稀です。

もちろん、日本にもお寺や神社という宗教施設が沢山点在してはいますが、それらの大半は実質何の役にも立っていません。

例えば、いじめ・パワハラ・モラハラを受け、人間不信に陥り、生きる意欲を失い、誰かに助けを求めたいとなったときに、誰一人としてお寺や神社には駆け込みませんよね!?


では逆に、なぜ日本で無神論が常識化してしまっているのでしょうか。

それは、日本人が宗教を


「宗教は、瞑想・修行を深めて到達する心の静寂・悟りを目的としている。そして、その悟りこそ、慈悲の源なのだ」

日本人の宗教観


と思ってしまっているからです。このような「ゴールを目指す」宗教観だと、必然的に序列が出来てしまい


悟りを開いたとされる組織のトップ(カリスマ)が「神・愛・宇宙の法則!」と叫び、それに対して「ありがたやー!」と群がる下々の人々

(カルトに近い)宗教の組織形態


という胡散くさい組織形態に陥ってしまいます。そう考えると、

無神論者が純粋に無神論を信仰(?)している


と言うよりかは


そういった胡散くさい組織形態そのものに嫌悪している


ととらえた方が腑に落ちます。


真の社会的セーフティーネットは

「役所が生活保護制度を整えればそれで良い」

といった単純なものではなく、ましてやそういった胡散くさい組織ではなく、本来は、社会に溶け込んでいる宗教が担うものなのだと私は確信しています。


しかし、残念ながら、日本には「巷に溶け込んでいる宗教」が実質機能していません(機能していない以上、それがどういったものか、すら想像出来ない)

よって日本人は人一倍「将来に不安」を抱き、「将来の為に」と必要以上に貯金してしまい、必要以上に保守的になってしまうのではないでしょうか。

衰退国家まっしぐらに陥ることは、自然の摂理のようにすら感じます。