【ウモ星人からの書簡】 D57-4 T1B - 20/23 地球での最初の日々(前編)
D57-4 T1B - 20/23
手紙のタイトル:地球での最初の日
日付:1967年3月20日
受信者:ビジャグラサ氏
原語:スペイン語
メモ:全三十枚中、四枚の手紙。
地球での最初の日
前回のレポートでは、フランス、バス=アルプ県ディーニュ付近に到着したときの歴史的な概要をお伝えしました。私たちのOAWOOLEA UEUA OEEM(レンチキュラー宇宙船)三機は、前述のフランスの町の近く、高度7.3379kmの地点に降下しました。私たちのOAWOOLEAIDA(宇宙旅行で船の素粒子の軸の角度を反転させる物理的プロセス)の瞬間は、地球の時刻で4時16分42秒TMG(±6秒の誤差あり)と記録しています。日付は1950年3月28日です。
(注意) 1965年11月8日、私たちは、当時アメリカにいたUDIEE34の息子UDIIE36の仲介で、地球の医師ピータース・ウェルター博士に、私たちの地球到着についての非常に短いレポートを送りました。兄弟は到着時間を4時23分と書きました(誤差の可能性は明記せず)。当時フランス共和国とヘルヴェティア共和国の電波センターから発信され、私たちの装置で検出した電波信号の記録と比較しながら、次元の時間データの変換を更に慎重に調べた結果、フランスの気象観測所の気圧・温度曲線と到着時の地球の大気のデータとを比較して割り出した最初の推定時間を修正することができたのです。
その日の早朝に六人の兄弟(GEE四人、YIEE二人)が下船しました(以前にお送りしたレポートをご覧ください)。地球人からの攻撃を想定した安全なシェルターであり、探検隊の機材を収納するための地下施設を掘ることが最初の作業だとご説明致しました。
この地下室には、兄弟が240XII(1XIIはUMMOの一日に相当し、約30.9時間です)の間、生き延びられる合成食料が保管されていました。
3月29日、地下の改造工事が完了しました。資材の貯蔵のために、壁の冷却を早める必要がありました。この冷却について、地球の技術者は驚かれるかもしれません。しかし、私たちの掘削方法は地球のやり方とは異なるのです。地表の岩石、砂、シルトを超高温で溶かし、ガスの膨張をコントロールして、すぐに窒素と酸素に変化させます。スピードアップに加え、無水石膏が水と接触して石膏に変化する際の膨張など、さまざまな副作用がありません。もちろん、事前に地質調査も行いますが、地震探査や電気探査ではなく、地球のX線と同じような立体写真で環境を分析します。その結果、地層の組成だけでなく、深部にある塊の位置までわかる画像が撮れます。支保工は、地球の支保工と似ています(例えばUMMOでは、支保工をその場で作ります)。岩石のシリカやチタンを溶かし、マグネシウムやアルミニウムに加工し、それを使ってIGAYUU(地球の人が使っている支柱のような金属製アーチ)を現地で組み立てます。
探検隊員は不安を抱いていたので、作業を早める必要がありました。第一に、次のUIW(UMMOの時間の単位)で宇宙の等力学条件が変わり、他の乗務員が許容範囲の期間で帰還できるかどうかがわかりませんでした。第二に、前夜、UEWA OEMM(宇宙船)を近くの松林に移動しましたが、それでも地球の住民に見つかる恐れがありました。
フランス時間の3月29日午前11時、探検家と乗組員の別れの挨拶は印象深いものでした。手を兄弟の胸に当てて、出発の時間を迎えました。眼差しがすべてを物語っていました。三十人の乗組員が船に乗り込みました。まもなく船はAIAIEDUNNII ( 外部の表面が白熱するまで温度を上げ、生きている細菌を焼いて、完全に殺菌します。微生物やウイルスは次元を反転することができ、宇宙を旅して私たちの惑星に到着してしまうので、これは必要な処置なのです) のプロセスを開始しました。
三機のUEWAは、約6kmの高さまで上昇しました。探検家たちが見守っていると、帰還のためのOAWOOLEAIDAAが発生し船は見えなくなりました。
その日、兄弟のうち二人は地下施設から少し離れた場所で最初の探索をするように命じられ、残りのメンバーは地下で仕事を続けました。
地下施設の入り口は、「シュヴァル・ブラン」の山頂からほど近い、この地方の山麓の一角に位置しています。そこからは、ブレオーヌ川が流れる渓谷全体が見渡せます。精度の高い光学機器を使えば、ディーニュの建物や古い大聖堂、ル・ベや鉄道の一部も断片的に見ることができます。ラ・ジャヴィの集落や周辺の質素な建物もはっきり見えます。あなたにとって興味深いお話ですが、歴史的な地下施設は今でも保存されており、兄弟が持ち込んだ科学機器の一部が設置されています。その入り口は完璧にカモフラージュされています。おそらくそう遠くない日に、この惑星の政府機関に正式に私たちの存在を表明するとき、私たちの文明から地球の文明への感謝の象徴として、フランス政府にこの設備を寄贈することになるでしょう。
3月29日の夕暮れ時の最初の探索は、私たちにとって予想外の結果となりました。あなたは、この出来事を下品に感じ、私たちの熟考したことを単純で滑稽とさえ思われるかもしれません。しかし、このことは、私たち兄弟に強烈な印象を残しました。私たちをよりよく理解するためには、未知の惑星に到着したばかりのOEMII(人)の立場になって考える必要があります。私たちは地球の人々の表現手段を、電波探知機によって記録した変調音しか知らず、その特殊な言語はまだ意味が分かっていませんでしたので、研究のためのしっかりとした基盤ができていなかったのです。
その日の夕方6時頃、ADAA65の息子ADAA66が他の兄弟とその周辺を歩き回っており、後で分析しようと、見知らぬ茂みのあちこちから小枝や葉を摘んでいたところ、二本の高い木(報告書には明記されていませんがおそらく松)の近くにいくつかの石が積み重なり、黒ずんでいるのを確認しました。岩石の構造から石灰岩であることが判明しました。周囲には焚き火に使ったと思われる灰も散乱していましたが、それよりも気になることがありました。1.8 Enmoo (1 ENMOO = 1.9 m)離れた場所に、いくつかの黄白色で柔らかくもろい紙の断片があり、しわくちゃで、明らかに人の手による文字や記号がたくさんありました。そのうち三つは排泄物で汚れていました。多数の未知の飛翔体(ハエやアオバエでしょう)が飛び立ちました。
この発見は非常に重要なもので、彼らはすぐに地下施設に戻りました。この紙の微細な構造はすぐに分析されましたが、UMMOでは製紙にセルロースパルプを使っていないので、材質は不明でした。記号や活字は、手書きではなく、標準的な型を使って印刷されたものであることがわかりました。なんらかの液体(印刷用インク)が印刷に使われていたことは私たちにとっては珍しいことでした。私たちの昔の文字印刷では、色粉を静電気で投射したり、印刷物の表面に焼き付けたりしていたので、これは不思議なことだったのです。(私たちの現在の印刷システムは、印刷するフィルムの分子を変化させ、他の色にするというのが基本です。つまり、インクで転写するのではなく、印刷面自体に複雑な化学反応を引き起こすのです) 排泄物の付着は、当初は謎でした。それを分析したところ、間違いなくヒトの腸管腺に由来する上皮細胞が存在することがわかりました。
私たちは可能性のある仮説のリストを作りました。最も有力なのは、儀式的なものではないかという説でした。おそらく人間は、文書に書かれた思想に異論がある場合、それを排泄物で汚したのではないかというものです。これらの仮説の中には、今では誰の目にも明らかなこと(きっと、どこかの牛飼いがあの有名な新聞を衛生的に使っていたのでしょう)も含まれていました。
この論争は、UMMOのUUGEEYE(子供)たちが、出生後に直腸に装着され、肛門から出る排出管(ノズル)を備えていることを念頭に置いていただければ、より理解しやすいと思います。糞便は酵素に変換される過程で液化され、その後のゲル化工程と静電排出により、排出管に残った滓が取り除かれます。そのため、地球の生物のように便の後始末をする必要はありません。一方、私たちの祖先は、排便の後始末にスポンジ状のものを使っていました。
けれども、新聞(だということは後で知りました)を汚した残留物の由来は、私たちにとってはさほど重要ではありませんでした。紙といくつかの断片が欠けた物は、発見されたときと同じようにUMMOで保存され、透明なゼラチン状の塊に包まれ、YIIEAGAA(これは、生物構造を低温で保存するあなたの知らない技術です。同じ部位や組織が、細胞の破壊を引き起こす水分の凍結なしに低温に耐えることはできないため、各点で温度勾配を制御します)の温度で一定保存されます。
この有名なコピーは、私たちが入手した最初の印刷物で、フランス語で発行された新聞「ル・フィガロ」で1950年3月25日から26日の土曜日と日曜日にかけて発行されたものです。
その奇妙な文字に兄弟は戸惑いました。この奇妙な人工物の中で最も示唆に富み、刺激的だったのは、絵と写真でした(もちろん、私たちは写真製版という独創的な技法を知りませんでした)。
後に見出しと分かったページには、フランスのユーモア作家J・セネップの署名入りの奇妙な風刺画が掲載されていました。それは核爆弾のスケッチで、弾頭にはフランスの政治家の顔があり、説明にはこう書かれていました。
「議会闘争
もし、彼らが私を煩わせるなら、私たちは水素爆弾を持つことになる。」
「 U.R.S.S.は東西の相違を解決するために安全保障理事会の特別会合を支持する。」
といった大見出しもありました。
その他に
「航空界のブラックシリーズ 三つの航空事故により十九名が死亡」
「インドシナへの緊急援助」
その裏には、排泄物で汚れているものの、私たちにとって、とても興味深い絵が掲載されていました。大人の人間が二人のUGEEYIE(性別ははっきりわかりませんでした)と一緒に写っていました。後でわかったことですが、それは女性と男女の子供たちでした。その絵の上には、当時の探検家たちにはもちろん理解できませんでしたが、「MONDIAL NURSERY」という文字が書かれていました。
さらに混乱したことに、新聞の別のページ(6ページ)に、ちょうどマリニー劇場で上演されたマルセル・アシャールの「マルボロ」の演劇で古典衣装を着た別の人(女性)の写真が掲載されていたのです。
繰り返しますが、この文書の発見は、想像を超えた重要性を持っていました。しかし、私たちはその文字を科学的に解釈する方法がありません。絵と文字に直接的な関係はありませんでした。その記号が図形を表すのか、表意文字を表すのか、複雑な音を表すのか、統合されていない表音文字を表すのか、わからないままでした。
あの書類は、いったい何のためにあるのでしょうか?その排泄物には、私たちが地球に到着する以前に乾燥し始めていた形跡があり、私たちのために置かれたものだという解釈はできませんでした。