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兎、波を走る

他人の目を見れない子どもだった。

周りの大人からこうあるべきという期待を向けられているのを感じつつも、私は非常に不器用で鈍臭く、吃って言葉がつっかえたりして、ああこの子はダメだねと目をそらされた。

親からは常に周りの子ども達と比較され、外見や利発さなど、欠点を指摘されてはなじられた。

役割をうまくこなせない焦りや、劣等感が日々増して、自分は恥ずかしい存在なので、他人の目に入るべきではないと思うようになった。他者に見られている自分を見たくないという思いが増幅した結果、人の目を見れなくなった。そしてどんどん愛想のない子、可愛くない子という周りの目線が増していくように思え、より一層他者から目を逸らすようになる負のスパイラルに陥っていた。

そんな私が多少なりとも変われたのは、大学時代に能楽に出会ったことがきっかけだ。

ひどい音痴なのを見透かされたのかどうなのか、「カラオケが上手くなる」という謳い文句にノコノコついていく愚かさが功を奏し、変な薬を盛られたりせずにこれまでの生き方を覆す縁に出会えたのは本当にラッキーだった。

能楽とは神に捧げるため、いにしえから守られてきた型に忠実に舞い、謡い、現し世に未練を残したひとびとの苦しみと接続する芸能である。

能舞台の奥、影向の松が描かれた鏡板を通して、観客はむしろ神に見られる側の存在になる。

曲の主人公の抱える非業の死、大切な人との離別といった苦しみ、そこから救われたいという願いと自分自身が混ざり合うとき、時間を忘れ、我を忘れ、自分に押し付けられてきた文脈ーー愛らしい幼児、柔順な娘といった役割、それを果たせない羞恥心、劣等感から解放され、気分が高揚した。

その頃から、さまざまな仮面を使い回すことを覚え、生身の自分ではなく、仮面を隔てて見ることで、他人と目を合わせられるようになった。

曲の詞章を暗譜して謡う経験を重ねることで、話し言葉がつっかえるのも随分無くなった。いまだ音痴は治っていないが、カラオケで思い切り歌う楽しさも知った。

ここで、これまで投げやってきた自分の人生における主体性を手繰り寄せることができたのだと思う。

しかし、まだまだ脆く、後悔や、他人のちょっとした一言や、ホルモンバランスなどでしばしば狂う自意識を自在にドライブさせることはできていない。壁にぶち当たるたび、思い通りにならない心身を観察しながら、外界と自分との輪郭を探る作業が苦しくもおもしろいと思う。

これからの人生は、自分の見方次第で変えていけるという確固たる感覚を持った大人になれたことが、世界から目を逸らし続けた子どもの自分にとって、想像だにしていなかった未来だ。あの頃の自分、この世界に踏ん張っていてくれてありがとう。

#想像していなかった未来

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