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意味不明な人々

所与時間に対して分量の多い入試問題というものが存在します。難関私大と呼ばれている大学はおおむねこれに該当します。この出題傾向に対して、「じゃあ速読だ!」と考える受験生がいても不思議ではありません。問題は、「速読をやらなければいけないから精読はやらない」という発想に至ってしまうことです。

「速読」の反意語は「精読」ではなく「遅読」です。「精読」の反意語も、もちろん「速読」ではなく、「粗読」です。速読を目指すにしても、それが粗読でよいのかといえば、粗読では解答の精度を欠いてしまい、合格は期待できません。速読であっても、理解に一定の精度が担保できなければならないわけです。ゆっくりやってもできないことを速くできることはないですから、大学受験英語の学習過程の中に、時間をかけてでも正確に読んでいくという精読を組み込んでいく必要があるわけです。

そしてここで持田が連日指摘している文法知識と語彙知識の学習の重要性が浮かび上がってきます。精読は文法知識と語彙知識を駆使した読みです。逆に、精読を通じて文法や語彙の知識を補い、深めていくこともあります。既習の知識を実践に落とし込み、そしてまた実践を通じて既習知識の穴を補い、浅かった既習知識を深めていく、これが精読の意義です。

こういう学習を経ていくと、読解の際に一目で見てわかることが確実に増えていきます。徐々に理解の速度が上がっていきます。こうして直読直解へと読みが進化していきます。やがて音読する時と同等の速度で英文が理解できるようになってきます。「速読」とはこのレベルを超えた特殊技能を本来指しますが、音読並みの速度で理解ができるようになれば、入試問題の解答は何とかなります。

ここに書いたことはもっと広く共有されていいと思うのですが、センター試験が始まった頃からずっと「速読」を「精読」と対立させて捉えている人が後を絶たないのが現状です。受験英語の「失われた30年」とも言える闇なのかもしれません。

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