見える、見える、見えるのだよ!
今回は、文法学習の話です。見えないもの、見えにくいものが見えてくる。これが文法学習のねらいです。外国語の場合は見えてきたものをよりどころにして、そのことばを使い込んでいくことで、習得の足がかりとなります。。母語の場合は、見えてきたものによってことばを効果的、戦略的に使えるようになり、母語を私的な日常言語から公的な言語に引き上げることができます。
これがことばを使っているだけで可能であれば、ひたすら使っていればいいので机で勉強する必要はありません。しかし、外国語、とりわけ英語のように日本語と似ても似つかない言語を学ぶ場合には、なかなか自然に文法が身につくということにはなりません。母語である日本語もあまりに自然に使いすぎていて文法を意識できないことが、日本語の高度な使い方(誰かと議論したり、論文を書いたり、文学を鑑賞したりすることなど)にたどり着けない原因の一つとなっています。
たとえば、「時制」とは述語で時を表す仕組みですが、その時制は日本語と英語ではまったく違います。これはなかなか自然に身につくものではありません。文法参考書にも必ずしも説明されていません。これは信頼の置ける先生に日本語で教わるのが手っ取り早いと思います。受験対策として英語を学んでいる人でなくても、この方法がよいと思います。
注意しなければいけないのは、「わかりやすさ」を追求した文法学習書です。これらの本には良心的なものもありますが、なかにはわかりやすさを追求するあまり、言語事実をねじまげてしまっているものもあります。このため、文法の独学は、意外に難しいというのが私の偽らざる印象です。