ことばの学びと文学
今回は、文学を読むこと、書くこと、というお話をします。言語教育を実用性の観点から捉える方からは文学は不要という意見も聞かれます。ここでは、言語教育に文学を取り入れることについての私の考えを述べていこうと思います。
まず、文学は作者が慎重に言葉を選んで書いたものだということを認識すべきだと考えています。社会生活で一般に生み出される文書と比べると、多くの文学作品は完成までに多くの時間が注ぎ込まれています。それだけ練り上げられた言葉によって読み手に働きかけてくるのです。こうした作品は、私たちがことばを学ぶ教材としてそれなりの価値を持ちます。このことは国語の授業でも英語の授業でも当てはまります。文学を雰囲気で読むのではなく、しっかりと言葉を読む、そしてそこから私たちのことばを豊かにしていくという流れをつくることが大切です。
次に文体に学ぶことも大きいと考えています。近代の日本の小説では、『羅生門』や『山月記』は高校教科書の定番です。これらの作品から英語をはじめとするヨーロッパの言語や漢文訓読の影響を感じ取ることは、日本語の書記言語のこれからのあり得べき姿を考えていく上でも大変重要なことです。もっと前の明治期の作品に触れるとどことなく古文の臭いがする作品と、そうでない作品とがあります。後者の作品の作者の多くは外国語(西洋語)に堪能であった人たちです。国語の授業では「古文」「現代文」と分けられていますが、前者から後者への移行(言文一致体の確立)には西洋の言語からの翻訳が大きな影響を及ぼしていることも、このあたりから学ぶことができます。
文学は解釈して鑑賞するだけではなく、創作にも意味があります。高等学校学習指導要領(国語)は、創作を扱うことにも言及しています。実際、『羅生門』の続きを書く授業などを実践している先生方も多いようです。同じ内容をニュース原稿のような報道文的に書いたり、文学的に書いたりして両者を比較するのも有意義な学習になります。どうすれば読み手が笑い、どうすれば読み手が泣くのかを考えることも大切なことです。