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手づくりの自由ーフリースクール雑文記(2)
こんにちは!
BASEスタッフのHARUです。
暑い日が続きますが、皆さまはいかがお過ごしでしょうか?
私はといえばあいかわらず東京で過ごしながら、たまにオンラインでBASEのこどもたちと話したり、夏休みのイベントの企画をしたりと、現場にはいないながらもフリースクールBASEの運営活動に取り組んでおります。
さて、今回の雑文記では、「無償の行為」というテーマについて、私なりの考えをお話ししていこうと思います。
前回の実存主義に続き、今回の「無償の行為」も厳密な意味では語用上の誤りがあるかもしれませんが、どれもこれも雑文記ということで多めに見てください(笑)
いずれにせよ、人間の本源的な自由とはどのようにして可能なのか、そういったことをできる限りフランクに探求していくのが、この雑文記のテーマということに(今回から)します(笑)
それでは、最後までよろしくお願いします♪
銀紙のムラづくり
突然ですが、記事をご覧いただいている皆さまは、絵を描いたり楽器を弾いたり工作をしたり、そういった没頭できる趣味をお持ちでしょうか?
私はきわめて真剣に、人間にとっての本源的な自由とは、そういった趣味の中にこそ宿るものだと考えております。
私に関してもそういった没頭できる趣味を今までにいくつか持っており、思い出せる限りで最初のものは、銀紙を丸めてムラをつくる、という幼い頃の遊びです。
たぶんまだ幼稚園児か、小学校低学年の頃だったのでしょうか、家にあった料理用のアルミホイルをちぎっては丸め、それを家屋や人物に見立てて床に並べていく、そういったことに時間を忘れて没頭していた頃の記憶を、私はいまだに覚えています。
来る日も来る日も飽きもせず、アルミホイルをちぎっては丸め、「これは村長でこれは蛇、これは神社…」という風に自分のムラをデザインしていた私は、その日の遊びが終わるといつも床のパーツをすべてかき集め、自分でくず籠に棄てていました。
そして翌日は棄てたムラのことなど思い出しもせず、ふたたび新しいムラをつくり始める……
地域のミニバスケットクラブに所属してからはバスケットに夢中になり、いつの間にかそのアルミホイル遊びはやめてしまいましたが、当時の自分にとって、その銀紙のムラづくりはたまらなく面白い時間でした。
今にして思えば本当にありがたかったことは、両親が私の銀紙遊びに対して何も妨げることなく、つぎつぎに使い切られていくアルミホイルをその度に何度も買い足しながら、静かに見守ってくれていたことです。
絵画や音楽、工作といった創作的な趣味をお持ちの方は特に共感していただけると存じますが、そういった自己充足的な取り組みに人が我も忘れ没頭している最中の、周りの世界が意味を失くしていくような感覚は、どんな褒賞も対価も必要とせずに、掛け値なく人間を自由にしてくれます。
そしてそういった自己充足的な取り組みを「無償の行為」と呼ぶことができれば、私の愛する本源的な自由も、いつでもその幼少期の銀紙のムラづくりに始まる、「無償の行為」の中にあります。
宮殿の証すもの
ここで「無償の行為」に関するユニークな挿話として、シュバルというある郵便配達員についてのエピソードをご紹介させていただきます。
このシュバルという人物の挿話については2018年に映画化もされているようですので、もしかしたらご存知の方もいらっしゃるかもしれません。
簡単にご紹介させていただきますと、19世紀前半にフランスの田舎町に生を享けたシュバルというこの人物は、社会人としての生活のほとんどを郵便配達員としての職務に捧げながら、ある日偶然つまづいた奇妙な形の石に不思議な啓示と着想を受け、建築にまつわるいかなる専門的知識も持ち合わせないまま、30余年という歳月を費やして巨大な宮殿をただ一人で作り上げました。
シュバル氏の空想のみをモチーフとして建立されたその宮殿は、この地上に佇む他のどのような建築物にも似ず、きわめて異様なその姿のままで、フランスの大地に今でも鎮座しているといいます。
(宮殿の画像や詳細についてはWikipediaに掲載されていますので、ここまで記事をお読みの方はぜひご覧ください)
いつか観にいこうと前々から思ってはいるのですが、いまだ機会がなくて実際には写真で眺めることしかできていないシュバル氏によるこの風変わりな建築。
空想の実現へと向かう情熱がその過程で現れるあらゆる不足と障害を凌駕し、エゴイスティックなまでに独創的な姿のまま地上の一角に悠然と鎮座する宮殿。
われわれ人間にとって、この異形の宮殿の象徴するものとは一体なんでしょうか。
私はそれが遠からず、シュバル氏の無償の行為のつくり上げてみせた、人間の「自由」そのものであるような気がしてなりません。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
今回は「無償の行為」というテーマについて、自分なりの考えを記述させていただきました。
正直、フランクだったという自信はまったくありません(笑)
私の銀紙遊びやシュバル氏の宮殿を例に挙げましたが、なんであれ何からも侵されない自分だけの喜びを持つということは、制度や構造といった社会システムから逃れるのとはまた違う意味で、人間が自由でいるために欠かせない要素だと私は思います。
最後までお読みいただきありがとうございました!
記事について何かご質問があれば、お気軽に私までご連絡ください。
次回もまた月曜日に更新します♪それでは、今週もがんばりましょう〜!
※なお、蛇足ですが先日読了した生物哲学者の福岡伸一さんの『芸術と科学のあいだ』(2015年/木楽舎)という本の中に、建築に関して次のような趣旨の記述がありました。
「建築とは生命の容れ物であるがゆえに、本来的には生命的なはずである。」
教育もまさにその通りだと私は思います。