笑いに関する名言――気障と笑い
名言が好きな人は多いはずです。それは世の名言集の多さから考えて明らかです。そして、お笑いが好きな人もそれなりにいるはずです。お笑い芸人は結構な数になりましたし、面白い話はいろんなところに転がっています。
でも、そのふたつを合わせた「笑いに関する名言集」となると、急に数が減るんです。限りなくゼロに近いと言ってもいい。だから、こうやって自分で作っている次第です。
ここでは笑いの名言を以下のみっつのどれかに当てはまるものとしました。
今回は気障な名言を選んでみました。名言には身近な言葉で物事の真理をバシッと言い当てているものがしばしばありまして、そういうものほど共感を呼んでいる気がします。この「バシッ」が格好良く見えるためか、それとも本人の資質がが原因なのかは知りませんけれども、格好つけたんじゃないかと疑いたくなる名言がチラホラあるんです。格好つけたつもりはないけど、結果的にそうなってしまったものももちろんあるでしょう。私が勝手に発言者のドヤ顔を想像している可能性も考えられる。
では、笑いに関する名言にも気障なものがあるのか。あるんです。主な原因は上の3原則のうち「笑いに関係する言葉が入っている名言」でございます。これに当てはまる、気障な名言がちょろちょろある。例えば、こちらです。
キャンベルはイギリスの詩人でございまして、上記名言が記されている「希望の悦び」が代表作とされています。同名の人物がウィキペディアにいろいろ出てきますが、イギリス詩人のキャンベルは日本語版に単独の項目がないようです。
そして、この名言です。アニメの気障なキャラクターが散々言ってきたとしても違和感のない言葉です。髪は当然のように金髪で、前髪は長め、すぐ「フッ」と鼻で笑うのが癖で、なぜか赤いバラを人差し指と中指で挟んで持つ、そんな感じのキャラクターです。
しかし、ウィキペディアのキャンベルを見ると、そんな感じの外見ではありません。現実はそんなものなのでしょう。でも、詩人なのはマジですし、そんな言葉を残したのもマジなようです。後世の人間が気障キャラのイメージを勝手にあれこれ考えたのが悪いんでしょう。
こんな感じで、とにかく「笑み」周辺の言葉が気障なワードと相性がいいようなんです。だから、こんな名言もございます。
リードはイギリスの小説家でありまして、劇作家としての活動でも知られています。チャールズ・リードも複数の著名人が存在する名前のようで、英語版ウィキペディアには「曖昧さ回避」へのリンクが貼られています。
微笑みとはすごい威力があるんだよ、と言っているわけなんですが、どうも気障な香りがプンプンするんです。きっとリードは美人に微笑まれ、「破壊力やべえな」と痛感したんでしょう。その辺は世の男性と同じですけれども、こうやって言葉にしたため、名言として今も伝えられているわけです。
続いての名言はこちら。
トマス・モアはイギリスの思想家であり、法律家としても知られます。世の中を諷刺した「ユートピア」で広く知られています。たまたまですが、最初のキャンベルとファーストネームが同じです。
しかし、最初のキャンベルのトマスもモアのトマスも涙を特別視した名言を仲良く残していますね。人間、涙よりも笑顔を見せる方が圧倒的に多いですから、レアな感じがしてしまうんでしょう。大切にしたくなる気持ちは分かります。
さて、ここまで小説家や詩人がいらっしゃるように、やっぱり言葉を駆使する人が気障な名言を残す傾向にあります。気障とは言葉をうまく操る能力があって初めて到達できる地位であるかのようです。
そして、ここまでの名言に共通していることとしては、日本語によって翻訳されている点もございます。つまり、誰かが翻訳した結果、私に目をつけられ、「これは気障じゃないか」といじられている。
これが有名な訳者となると、話が少しこじれてきます。
まず順番に説明しますと、上田敏は日本の評論家であり詩人、英文学者としても知られ、西欧の詩を次々に翻訳して日本に紹介した功績も認められています。
上記名言はそんな上田が翻訳したものでございます。調べたところ、フェルナン・グレエグはフェルナン・グレーグ(1873-1960)のようでして、フランスの詩人でございます。
何しろ100年以上前に翻訳されたものであるため、現在ではまず使わない言葉がチラホラ見られます。それでも気障な感じが何となく読み取れる。
原文がどうなのか私には判断できませんけれども、少なくとも似たような内容の作品をグレーグは遺したはずです。何ならもっと気障かもしれないし、気障じゃないかもしれない。ただ、上田が全訳詩集を作られるレベルで有名なため、「上田さん気障っすね」と勘違いされてしまいかねない、気障のもらい事故みたいな状態になっています。
いや、気障なんて言っているのは私だけであり、普通これは「綺麗な文章」と言うんです。上田はもらい事故ではなく、私に当て逃げされているに等しい。大変失礼しました。
まだまだ謝る羽目になりそうですが、次の名言に移ります。
いよいよ漢詩が出てきました。このままでは意味が極めて分かりづらいので出典元の書籍に載っていた翻訳文を引用します。改行は原文と同じところになっています。
崔獲がどんな方なのか軽く調べたレベルでは分かりませんでしたが、唐の詩を多数収録したとされる「全唐詩」に載っている作品のようですので、唐の詩人だったと推測されます。
それが南宋の時代にも禅宗の歴史書である「五灯会元」に収録され、更には江戸時代の禅僧、白隠慧鶴の「槐安国語」にも取り上げられるなど、長きにわたり様々な書物で伝えられてきたようです。
そう考えると、多くの人の手によって伝えられた、昔の貴重な作品でございます。「桃の花が春風に笑ってる」なんて表現は、翻訳者の腕もあってか、読む人を暖かな気持ちにさせます。
ただ、これまでの流れのせいで、「唐の詩人も女性にちょっとやられてるじゃないか」なんてけしからん感想が私の脳裏で悪さをするんです。どうして、こう美文を素直に味わえないのか。もっと漢詩について学ぶ必要があるのかもしれません。
ここまで、海外の名言を紹介して参りましたが、もちろん国内の名言でも「気障じゃない?」と思わせる名言はございます。例えば、こちら。
閑吟集は、ある世捨て人によってまとめられた歌謡集、つまり和歌などを集めた作品でございます。
自分の恋を自嘲的に詠っておりまして、蛍に例えている辺りが綺麗とも言えますし、気障との見方もできるでしょう。
書いてて気づいたんですが、私、恋愛系の名言を気障だと思う傾向にあるようです。何らかの魅力のある言葉遣いだから「名言」と扱われるわけなんですが、恋愛がらみであれこれこだわった表現の言葉となると、私は「やってんな」と考えてしまう。酷い先入観です。
恋愛に対して、むき出しの叫びとも言うべき言葉を残している方もいらっしゃいます。
三好達治は詩人であり、文芸評論家としても知られます。フランスの近代詩と東洋の伝統詩の手法を取り入れた作品で知られています。
思ったのは、やっぱり男性は女性の微笑みに弱いし、何なら微笑みまくってほしいと考えている点です。もうこれは昔からそうでしょうし、もう仕方がないと思います。男性に生まれてしまったら、そういうもんだと考えるしかありません。
いや、むしろ性別の話じゃないでしょう。好きな相手の微笑みにはみんな弱い。そして、もっと微笑んで欲しい。そういう話なんだと思いました。
最後にこれまでとは異なる角度の名言をひとつ、ご紹介いたします。
フィールディングはイギリスの劇作家であり、小説家としても知られます。イギリスの小説家としては著名な人物でございまして、「イギリス小説の父」とも呼ばれています。
私、ここまでいくつかの名言を取り上げては「ちょっと気障じゃないっすか」といじっていたわけですが、それとは比べ物にならないほど「気取り」をバッサリいった名言です。今まで散々いじってきた私でも「いや、自分そこまで思ってないっす」とアタフタせずにはいられません。
気障と言うか、あんまり気取ると「イギリス小説の父」とか、そういうすごい人にいろいろ言われるみたいです。私も気をつけたいと思います。
◆ 今回の名言が載っていた書籍