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危機管理と笑い

 佐々淳行さんと言えば警察官僚として東大安田講堂事件やあさま山荘事件など多くの事件に携わり、危機管理のスペシャリストとしても長年活動された方です。

 そんな偉い人についてうろ覚えで書くのは心苦しいのですが、検索しても該当する情報が出てこないんです。私の思い違いじゃなくて昔過ぎて出てこないだけだと信じて書きますけれども、確かテレビ番組でビートたけしさんが佐々さんに質問したんです。「何か大きな事件を指揮している時、みんな真剣だからこそ思わず笑っちゃうようなことは起きないか」と。

 ビートたけしさんらしい質問だなあと思っていたんですが、それに対する佐々さんの返答が非常に印象深いものでした。

「もちろん、ある。そういう時、笑いの起きない部隊が全滅する」

 逆かと思っていた私は驚きと同時に感心しました。笑う余裕がないと危ない。笑えることが好きな私は、佐々さんのこの言葉を現在まで大切に記憶しています。何ならそのせいもあってか、仕事で大変な時、くだらない話をするようになりました。新人の頃はすべったり怒られたりしましたが、今ではちょっとは場を和ませられるようになりました。すべっているのは相変わらずですが、きっといい効果があったはずだと思い込んで強く生きております。

 全く同じ発言は検索しても見つかりませんでしたが、佐々さんの著書「危機管理のノウハウ―信頼されるリーダーの条件」を確認してみたところ、確かに危機管理上、笑いが大切であると書かれていました。

 佐々さんはユーモアを「人間精神のあそび、あるいは心のゆとりの表現であって、いわば人間関係の潤滑油」と評し、その大切さを語っています。そして、西欧では往々にして「Senseセンス ofオブ Humourユーモア」、すなわちユーモアのセンスが評価され、公式の場でのスピーチでもユーモアを織り込んで時に場を湧かせるのに対し、日本では非公式の場ではユーモアのセンスがある人でも、公式の場ではそれを披露しないと指摘してします。少なくとも、著書を出された当時ではそうだったのだと思います。

 更に佐々さんはこう指摘します。昔の書籍のため、文章を現代的な表現に近づけるなど、一部に注釈や表現における若干の変更を加えておりますことをご容赦ください。

 ふだんでもうっかり冗談をいうと、不真面目、不謹慎、軽薄といったそしりを受けることが多い。まして緊迫した場面で《ブラック・ユーモア》を飛ばしたりすると、「こんなときに冗談をいうとは……」と白い眼でみられ勝ちである。第一、《ブラック・ユーモア=Black Humour》という英語の表現そのものが、《悪ふざけ》《性質たちの悪い冗談》と訳されかねない。しかし、《ブラック・ユーモア》の効用は大きい。険悪な雰囲気を、フッとときほぐす力を持っているからである。
- 中略 -
 こういう《センス・オブ・ユーモア》は、難局に直面したとき、その効用は一層大きい。なぜなら、それは通常な神経では堪えがたい現実を冷静な第三者の眼で眺めて、そこになにか「救い」と「笑い」を求めようとする、精神の安全弁の役割を果すこともあるからである。

 佐々さんはユーモアの力を評価し、具体的な効果について触れています。そして、緊迫した場面だからこそおかしなことが起きるという具体例を出しながら、更にユーモアの効用を理論立てて説明しています。

 こういう(緊迫した場面でおかしな行動をしてしまう)ことは実際によくあることである。あるとき、急迫した状況の下で、冷静沈着に危機対処要領について指示をしながら、しっかりした手つきで紙巻煙草にマッチで火をつけ、落着きはらって火のついた煙草を灰皿に捨て、マッチの燃えかすを口にもっていったひとをこの目でみたことがある。
- 中略 -
 ひとはみな、疲れてくると、自分だけは正常だと思って、こんな滑稽なことを大真面目にやっているものなのである。
 《ブラック・ユーモア》とは、変てこな状況下におかれ、ともすれば異常心理に支配されそうな自分も、周囲の人々や、あるいは当面する難問題や、悲惨な事件などを客観的な角度から眺めて、そこになにかの救いと笑いを求めようとする心のゆとりの現れだと思う。難局に処して苦悩しながら〝行動している自分〟を〝観察している自分〟が第三者の皮肉な眼で眺め、そこに滑稽な一面をみつけて苦笑することのできる「一人二役」のひとは、極限状況に陥っても、錯乱したり、ノイローゼになったりすることのない幸せなひとといえるだろう。

 緊迫した状況こそ笑いは不可欠だ。佐々さんの主張はまとめに至るまで一貫しています。

 本質的には事態を真剣に考え、行動しながらも、危急存亡の状況を茶化して、いったん笑いをとり戻し、りきみすぎた肩の力を抜いた上で、現実的打開策を講じようとするもので、にわかに不真面目だ、不謹慎だと目くじらをたててとがめだてすべきものではない。
 その意味では《センス・オブ・ユーモア》は、そういう苦境に陥ったときの、気分転換、発想転換の原動力といえよう。したがって《センス・オブ・ユーモア》は、評論家やテレビの人気タレントにとって大切な素質であるばかりでなく、むしろ重責をになって行動する各界の指導者にとっては、もっと必要な素質なのかもしれない。
 車のハンドルにも「遊び」があるように、難局に対処するときの指導者の巧まざる《センス・オブ・ユーモア》、危機に際しての過度の緊張や疲労から生ずる喜劇的な現象を、叱責するかわりに緊張感緩和に活用する心のゆとりをもったリーダーの存在は、不安に脅える周囲の人に正常心をとりもどさせ、集団ヒステリーに陥りそうな異常心理のたかぶりを鎮める安全弁となるのだろう。

 危機管理の専門家が笑いの効能を大切にしていたのは特筆すべき点だと個人的には思います。危険な時にこそ笑いを忘れない。怒られる時もすべる時も私はまだまだあるでしょうけれども、大切にしていきたい考え方でございます。

 それに関連して私には気になる記憶があります。

 2011年3月11日、私は職場に出勤していまして、いつもより遅い昼休みを取っていました。ようやく昼休みに入ると、職場から歩いて数分の場所にあるいつものお店でご飯を食べようと慣れた手つきで食券を購入しました。さて店内に入ろうとしたところ、いきなり物凄い音が聞こえて目の前がグラつき、私は思わずその場にしゃがみました。最初は食券販売機がガチャガチャ言っているのかと思いましたが、もう周りの建物が全てガチャガチャ言っています。地震だとようやく気づきました。

 こういう時、私はもっと慌てるのかと思っていましたが、変に冷静だったのを覚えています。私は自然災害が怖くていろんな防災施設をはしごしたことがあるんですが、その時に乗った地震体験機に感覚がそっくりだったんです。「さすが体験機、再現度が半端ないな」と緊急時にバカな感心をしていました。

 もちろん、揺れてる間、他にもいろいろ思いました。私のいた場所はちょうどビルの1階にある定食屋だったんですが、建物で最も危険なのはビルの1階だとかねてより聞いていました。大地震によって1階だけ潰れたビルの写真を何枚も見てきた恐怖の記憶が蘇ります。じゃあ危ないからと外に逃げると、もし上の階の窓ガラスが割れて地上に降ってきていたら危ないですし、「地震だ、外に逃げなきゃ」と表に飛び出してそのまま車にひかれた事例も確かあったはず。知識優先で行動できなくなる頭でっかちの典型です。まあ、揺れが大きすぎてどの道、立ち上がれなかったんですが。

 たまたま後ろに並んでいた女性もまたしゃがんでいました。私たちは互いに「大丈夫ですか」「なるべく落ち着きましょう」と励まし合い、周囲で危険なことが起きていないか注意を払っていました。すると、女性が叫びました。

「代ゼミのビルが揺れてる」

 振り返ると確かに、予備校の入っている6階建てのビルがわずかに揺れてるのが肉眼でも分かったんです。わずかって言ったって6階建てのビルが揺れる時点で相当な地震です。これはヤバいぞと思っていましたが、どうにか揺れも収まってきた。右手にはしっかりとアジフライ定食の食券が握られている。定食屋も営業を続けている。じゃあせっかくだし、アジフライ定食をいっとこうと思い、とりあえずおいしくいただきまして、お腹いっぱいで職場に戻ったら当然ながら従業員は全員緊急事態モードになっていました。何なら「星野が戻って来ない」と心配した上司がちょうど私の携帯に電話しようと受話器を上げているところでした。

 それから計画停電とか余震とかいろいろありつつも、日を追うごとに少しずつ、本当に少しずつですが日常へ戻っていくんです。私はまたいつもより遅い昼休みにいつもの定食屋でアジフライ定食の食券を買ったんです。振り向くと、あの日にグラグラ揺れていた6階建てのビルがある。地震があった当時は気づかなかったんですが、ビルにはいわゆる袖看板がついていたんです。そこにはしっかりと「駿台予備校」と書いてありました。

 「代ゼミじゃないじゃん」と今更ながらツッコんでしまいました。あの時の女性は天然で間違えたのか、それともパニックの特効薬として渾身のギャグを放ったのか。もし後者だったとしたら、やはり笑うべきだったのか、せめて即座にツッコむべきだったのか。春になるたび思い起こされる疑問です。

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