悪い言葉は誰にとっても必要なのか
なるべく良い言葉を使った方がいい。私もそう思います。ただ、悪い言葉は絶対に使ってはいけないと言われると、なんか違和感があります。悪いとされる言葉だって、何かの役に立っているから今まで存在してきたのではないかと思うんです。
痛いとか苦しいとか、そういう言葉は分かりやすく役立っていると思います。確かにネガティブな言葉ですけれども、痛かったり苦しかったりする状況を他の誰かに伝えられる点は重要です。身体の異常を誰かに訴えられる大切な言葉であり、それは時に自らの命を救うこともあるでしょう。ネガティブな言葉が嫌だからと言って、お腹が痛いのにお医者さんの前で「体調バッチリっすよ!」と言って親指を立てていては、治る腹痛も治らなくなってしまいます。
いわゆる悪口とか罵倒とか、そういう言葉も時に役立っていると主張する知人がいます。知人が言うには「悪口や罵倒があるうちは手が出ない」とのことです。もちろん、言葉でワーワー言い合うのはよくない。ただ、暴力に訴えるよりはまだいい。そして、相手を罵倒し合っているうちは、人は暴力を振るわずに済んでいると言える。そういう主張です。
確かに言葉でガス抜きをするという意味では重要な役割かもしれません。罵倒されるのは嫌だけど、あご先に右ストレートを決められるよりはマシという考えは分かります。でも、罵倒し合ってるということは、喧嘩しちゃってるわけなんです。なるべくなら喧嘩はしないに越したことはありませんし、あんまり喧嘩をしないような人にだって悪い言葉が役に立ってくれていいはずです。喧嘩をしない人にも何らかの形で役に立つから、結構な種類の悪い言葉が今も生き残っているのではないかと思うんです。
いろいろ考えた結果、それっぽい理由を見つけた気がしたんです。前出の友人が言っていた、「罵倒の言葉は暴力沙汰にならないためにある」がヒントとなりました。
例えば、物凄く機嫌が悪くて、ちょっとしたきっかけで怒りが暴力へ移行しそうな人がいたとします。あと一押しで近くにいる赤の他人へアルゼンチン・バックブリーカーをかましてしまいそうな、猛烈な危険人物とします。
そういう方は往々にして言葉遣いが荒くなります。もうここでは文字にするにもはばかられるような、恐ろしい単語が連なった、震えあがるような文章が口から数珠繋ぎになって出てくるに違いありません。
そんな恐ろしい言葉遣いによって、我々は「あ、あの人ヤバいんだな」と判断して事前に距離を取ることができる。相手の悪い言葉を察知して危険を事前に回避するこの行為は、悪い言葉をあまり使わない人でも悪い言葉を活用していると言えるんじゃないでしょうか。
だって、危ない人が悪い言葉を使わなかったら大変です。「本日はお日柄も良く、絶好の散歩日和ですね」とにこやかに近づいてきた人がいきなりアルゼンチン・バックブリーカーをしかけてきたら、避けるのは極めて難しいと思うんです。やっぱり事前に悪い言葉をワーワー言ってもらった方が、アルゼンチン・バックブリーカーをかまされる前に距離を取れ、思わぬアルゼンチン・バックブリーカーを防げるに違いないんです。
いい考えに至った気がしたんですけど、こうやって書いてみるとなんか穴だらけの主張に見えますね。
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