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誰もが誰かを食べている―『ボーンズ アンド オール』

 ルカ・グァダニーノ監督の映画『ボーンズ アンド オール』を観た。
 人肉を食べたいという欲望を持つ18歳の少女マレン(テイラー・ラッセル)が、父親に捨てられ母親に会いに行くためにアメリカの各地を渡り歩くという物語だ。マレンは道中で同じく食人の少年リー(ティモシー・シャラメ)と出会い、旅を共にする中で互いに惹かれあっていく。カニバリズムというショッキングな素材を扱っており、ゴア描写やホラーシーンも満載だが、話の軸は孤独を抱えた若者同士のラブストーリーである。

「孤独」への共感を呼ぶ映画

 素材が素材なだけに、そしてやはりグロいシーンや怖いシーンが多いので誰にでも気軽におすすめできる映画ではない(私自身、グロやホラーはそんなに得意ではない…)のだが、刺さる人にはとても刺さる内容になっている(実際、私は後半のクライマックスシーンで泣いてしまった)。それは「食人」という一見するとショッキングな要素が、主役ふたりの絶望的な「孤独」を描くためにとてもうまくハマっていて、同じように「孤独」を抱えた様々な人の共感を呼び起こすものになっているからだろう。
 では、「食人」の性質を抱えたマレンとリーは、具体的にどんな「孤独」を象徴しているのだろうか。まず、舞台が80年代のアメリカということもあり、同性愛を連想することはたやすい。冒頭でマレンが女友達の指を食いちぎりそうになって大変なことになるシーンがあるが、事件にいたるまでの二人の間には確実にセクシュアルなムードが重ねられている。また、シャラメ演じるリーは髪型や服装にどこかクィアなところがあり、リーが男性を性的に誘惑するシーンもある(思い返してみれば、作中でリーが食べているのは男性ばかりだ)。作中で同じ食人同士は「同族」と呼ばれ、食人であることを公にはひた隠しにしながら生きざるを得ない一方、同族同士はにおいでわかるらしく、秘密を共有する独自のきずなやコミュニティを形成している。また、作中には食人の衝動をおさえられず精神病院に入院させられたある食人の女性が登場するが、ここで欧米における同性愛の歴史を想像する当事者は少なくないはずだ。このように、同性愛者、とりわけセクシュアリティを理由に社会的に抑圧された経験を持つ人にとっては、確実に自身の「孤独」と重ねることのできる映像になっていると思う。
 一方、マレンもリーも親との関係において重大なトラブルを抱えており、社会的に疎外された若者でありながら家族あるいは故郷を頼ることのできない、「ホーム」がない若者という意味でとんでもなく「孤独」である。物語の中でマイノリティを描く際、最終的に家族や故郷が救いになるという描き方はよくされがちだと思う。たとえば『イン・ザ・ハイツ』では、アメリカにおけるラティンクスの若者がマイノリティゆえに受ける抑圧を描きつつも、彼らの故郷であるワシントンハイツは、当然のように彼らが安心して「帰るべき場所」として設定されていた(それゆえに、ハイツ自体の変化がドラマの推進力になっているのである)。また『ボヘミアン・ラプソディ』では、クィアでエイズ当事者にもなったフレディが、最終的にはQUEENという「家族」に戻ることが(少なくともこの映画の中での)フレディにとっての救いとして描かれていた。
 しかし本作ではマレンとリーは家族や故郷を頼ることはできず、若者、しかも食人という性質ゆえに社会的なつながりも持てないでいる。多くの物語が描くほど、いや、多くの物語がそう描かなければ理想が保てないとすればなおのこと、実際の家族や故郷というのはもっと複雑で厄介で、決してあらゆる人にとってのセイフティネットになるようなものではないと私は思っているのだが、それにしても、本作における主役ふたりはあまりにも寄る辺がなさすぎる。マイノリティでありながらホームを持つこともできず、「孤独」に絶望しながらも懸命に生きる人々にとって、マレンとリーが身を寄せ合って必死に愛をむさぼる姿は、きっと自分と重なって映ることだろう。

社会の中で生きるということ、誰かを食べるということ

 この映画において、食人という行為そのものは(解釈の余地は様々だとしても)演出上は生理的な衝動として描かれているように思われる。そして、この行為をなぜ抑圧しなければならないかというと、それはもちろん、他の人を犠牲にしてしまうからである。ではなぜ他の人を犠牲にしてはいけないのか…?それはやはり、人間が社会の中で生きなければならないからだろう。
 しかし社会の中で生きるということは、誰か他の人の時間なりエネルギーをいくらか消費して、あるいは他の人から自身の時間やエネルギーをいくらか消費されて生きるということである(「消費」というと少しグロテスクに聞こえるかもしれないが、特に組織の中で働くと、他の人の時間や労力をうまく、しかしできるだけ最小限にとどめる形で「使う」ことが日々求められるようになる。家庭内でも誰かが家事をすることは、他の家族のためにその人の時間やエネルギーを消費しているのと同じである)。完全に自給自足で生きられるぜ!という人がまったくいないとも言い切れないとは思うが、多くの人は他の人の助けを借りながら、そして他の人を助けながら、なんとなくうまく生きていかなければならない。それはヒトが「社会的動物」であるならば、動物集団としての「ニンゲン」の生存本能のようなものである。
 しかし、この「消費」が他人そのものの「犠牲」にまで至ってしまうこともある。周囲から期待されていることが他の人よりも極端にできなかったり、あるいは何らかの事情でコミュニケーションそのものにもともと問題を抱えていたりする場合、社会の中でみんなと同じことをしようとすると、他人がそれを不当と感じるほどに、あるいは他人の心身を蝕んでしまうほどに誰かの助けを借りることになってしまう。
 私自身、もともと他人への気遣いだったり、何かをやりながら周囲の状況にも目を配ったり、ということが苦手なところがあり、仕事でも他の人に結構な迷惑をかけてしまった経験がいくつかある。もちろん自分なりにやり方を工夫したりしてなんとか改善はしているが、それでも苦手意識が消えることはない。そんなとき、自分の無力さを痛感するとともに、「また人の時間を奪ってしまった…」と感じるのだ。
 いわば、誰もが誰かを少しずつ食べあって生きているのが「ニンゲン」という集団であり、しかし個人としてみたとき、「ニンゲン」として生きようとすればするほど、誰かを「食べすぎ」ずにはいられない人たちがいるのだ。この映画が少なくない人々の心を打つのは、きっとそうした人の絶望にも寄り添ってくれるからではないだろうか。少なくとも私はそんなことを思いながら、草っぱらで抱き合うマレンとリーに嗚咽したのである。


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