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40年目の反省リスト(11)1994年
担当編集者さんがほとんど入れ替わり、連載もいくつか終わり、ひそかに期待した「日刊アスカ」にはたった2週間でドロンを決められるなどあって、安定期から変動期への移行を否応なく感じさせられ始めた1994年の年明け。
この年、またまた仕事面での変動があった。
(変動その1)
1月、東京中日スポーツで6年続いた4コマ「ドラ一発!」が終了。
2月から、記事に付随したヒトコママンガを執筆することになった。
4コマは何日分か描き溜めてデスクに送ることもあったけど、記事に付くマンガとなるとそうもいかず、試合のある夜は毎晩緊張した。
これが約6年続いたおかげで、今も原稿の修正対応だけは早い。
(変動その2)
「月刊グラン」(中日新聞社)の連載がこの年開始。ありがたいことに30年経った今も連載継続中である。
当初は1ページ3本の4コマ掲載で、「グランパスでやんす!」というおちゃめなタイトルだった。
その後1ページマンガの「瑞穂天国」が同時進行で開始、のちに「瑞穂天国」だけになり、さらに誌面刷新とフランチャイズ移転が重なって再び4コマ掲載(2本)の「豊スタ天国」となって、現在に至る。
(変動その3)
この年、イッキに「名古屋マンガ家」になった。
「名古屋ネタの開祖」である清水義範先生と、「東京学」「大阪学」などの地域学研究本がベストセラーになった経営書院から、ほぼ同時にお声がかかったのだ。
ゴールデンウイーク明けだったか、まず清水先生の友人である学習研究社の担当編集者さんから、「笑説大名古屋辞典」に掲載するマンガの依頼があり、5月中旬に打ち合わせをすることに決定。
そのほんの2~3日後、トーチュウに打ち合わせの電話をかけたら、デスクさんから「名古屋の本の絵を頼みたいって、出版社から電話があったよ」とのお言付けが。
「あー、学研さんですよね?この間ウチにもありました」
と私が答えると、デスクさん、
「え?そうだったかな…」
となぜか怪訝そうな返事。
実はこれが、経営書院の「名古屋学」担当編集者さんの最初のコンタクトだった。そのすぐ後に担当さんから電話があり、学研の数日前に打ち合わせが決定した。
こんなまさかのタイミングで、こんな同ジャンルの初仕事が重なるとは。
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出版界には「名古屋本ブーム」というのが定期的にあって、最初の1980年代後半が第一期、この1995年前後が第二期、愛知万博の2005年前後が第三期…他、さざ波ほどのブームも含めば5~6度。
拙著「やっとかめでGО!!」は、単行本こそどの期にも混じれなかったが、名古屋ネタや名古屋弁を頻繁に描くという当時としては珍しいギャグをやっていたおかげで、こうした「二次展開」には結構恵まれた。
それもこれもすべて、連載開始前の打ち合わせで、
「清水義範先生の『蕎麦ときしめん』みたいなマンガにしましょう」
と提案してくださった、「まんがパロ野球ニュース」初代担当編集者さんの
企画力のおかげである。
のちに竹書房を退社されてしまったが、マンガ家人生の中で最大の恩人だと、今も感謝してやまない。Aさんお元気かな。
今回は図に乗っててあんまり反省してないけど、変動期はまだまだ途中。
まー翌年にドッとくるので、次回をお楽しみに。
(第11回・了)
※今回も有料ゾーンありません