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連続

で動画投稿完了。

モチベーションは妻と息子と母のリアクション。
それに昨日は職場の方にも観てもらった。

動画の時間は昨日よりも長いものだったが、制作時間は昨日の半分ほど。(2時間くらい)

作業は9割がテロップを打ち込むというもの。

なんとなくイメージが掴めるとこれだけ速くなるのかと実感。

このテロップというのは、1動画(6秒くらい)あたり10〜15字くらいだが、ここに何書くかもセンスが問われると思いつつ、ひたすら作業を進めた。

一ついいなと思ったのが、テロップに繋がりを持たせること。

みんなお待ちかねの〜→みんなお待ちかねの〜(2回目)

これユニバのジュラシックパークみたい→これはバックトゥーザ・フューチャーやん

これがあると、クスッと笑ってしまうような面白い動画になり得ると思う。

この「つながり」というのは色んなところで大切にされており、点を線にするという意味でも使われる。

例えば算数の授業。
既習事項とのつながりに気づかせるために復習の時間を取る、どうすれば課題を解決することができる(=今まで学習してきたことを使えるようになる)か考えるなど、一つの点ではなく複数の点を繋いで線にするイメージで授業の構想を立てる。
算数科のキーワードである「統合的」という言葉にも通ずるものがある。

他にも漫才。
途中のボケにあえて突っ込まず、少し時間を空けてから「あと、さっきのやつ何なん!?」みたいにツッコミを入れる。見取り図がよくやるやつが分かりやすい。

〜みたいという比喩の表現を日常でもよく使うが、これはある意味「つながり」を感じさせるものである。

過去の経験と結びつけるというつながりに着目すると、たしか国語科の「読むこと」においても、自身の経験に基づいて考えることが指導事項として挙げられていたように思う。

自身の所属する課でも、大切にするキーワードとして「つながり」が挙げられている。おそらくここでは、人とのつながりという意味も含んでいる。チームとして協働的に働こうぜ的な。

ふと思ったのだが、たくさんの点を繋いで線になる、そしてその線を繋いでいくと輪郭になる。その形こそが自分であると言ってもいいのかもしれない。

先ほど歩きながら落語を聞いていると、ある落語家さんが「落語一家に生まれた自分は、外の世界を見ることで落語に対する理解が深まるんだ」という話があった。

この逆説的な考えは、昨日読み終わった『学校とは何か/汐見稔幸』に出てきた「学校が変わるためには、学校の外の力を注入すべきだ」という話にも通じるところがある。

Aについて理解したいなら、A以外のものを見るべし。

一見つながりがないようなものも、繋がりを見出すことができる目を養うことで理解が深まるということ。

書きながら良い気づきがありました。
ちゃんちゃん。