激雪。
「先生、死ぬ死ぬと言って、戦後、本当に死んだのは三島由紀夫しかいませんよ」
と、つい軽口を叩いてしまった。
すると、その瞬間、野村の顔から笑みが消え、キッとした表情になって返ってきたのは、
「いや、それに野村秋介も加わるんだよ」
皆さんは、野村秋介をご存じでしょうか。
思想は別にして、僕の憧れの人です。
思想・信念・主義・主張を貫いた。
昨日の昼休憩に読ませていただきました。
とても嬉しかった。
青木真也選手も分かってる。
勝手にそう思いました。
(是非 読んでください)
立嶋篤史選手を否定しません。
でも、テレビがそれを美しく写そうとするのに違和感を感じたし、それに操られるのも嫌だった。
ジャッカル大石選手もそうだ。
あれなら、さらし者だ。
使う側にも問題がある。
皆『あしたのジョー』が好きじゃないですか。
真っ白な灰になる。
メチャクチャわかるんですが、そこに美しさは僕には感じない。
辞めれる人は凄い。
それしかない事から決別できるんだから。
それしかないって事は、それしかできないのだ。
それって、僕には虚しく感じる。
宇野薫選手って美しい。
まだ引退されていないが、セカンドキャリアでアパレルされたりで。
その行動力が素晴らしい。
次ができている。
道を自ら作られたのだ。
人には、それぞれの役割がある。
僕はそう書きました。
選手も、そうだと思うんです。
格闘技を辞めて、ジムを開く人。
人を育てる。
後継者を作る。
自分の作ったモノを残したいのでしょう。
だが、こういった事も僕には何故か魅力を感じない。
すべてが『想定内』だからだ。
そこからはみ出して、自身の道を行く。
出来る事をトコトンする。
格闘技って文化だけではなく。
青木真也選手がそうだ。
僕にとって青木選手の『格闘技』での表現は去年のザイード・イザガクマエフ戦で終えた。
あの闘いは敗北したが、僕には終点にも見えた。
やり切った。
そう思えた。
何周もされているのだ。
そこに【生きる】ことをみた。
青木選手が(まだまだ)と思うのならそれでいい。
僕は、そう思ったのだ。
イノキ・イズムとはレスラーに連鎖されるだけじゃない。
僕達、一般人・社会人に影響を与えている。
そこに青木真也選手も加わっているのだ。
アオキ・イズムも沢山の人に連鎖している。
頑張ろう!
そう思える事が繋がっているのだ。
闘いの表現は無限だ。
僕には、青木選手のプロレスでの『闘い』に魅了されている。
立派な表現方法だ。
正直、青木真也選手に「MMAやってください」なんて軽々しく言えない。
もうずっと闘われてきたんだ。
そんな簡単に言えない。
大丈夫、もういいよって言いたい。
やってきたんだから。
充分に。
『青木真也』が例えば木こりになっても『青木真也』なのだ。
青木真也の物語であり『青木真也』を全うする事に意味があるのだ。
七日の命。
儚いからこそ、全力で生きる。
かげろうの様に。
『俺に是非を問うな 激しき雪が好き』
だからこそだ。
『青木真也』は生き抜くのだ。
闘い続けるのだ。
『オレは若い連中に生きざまはもう充分見せた。あとは死にざまを見せなきゃ、オレの言葉がすべてむなしくなってしまう。オレがきっちりオレの人生を全うすることによって、人はオレの言葉に耳を傾けるんだよ』
今、野村秋介の姿が青木真也選手と重なり合う。
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