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lost and found

「もう、いいかい。」
僕はそう呟く。
けれど君は、僕の問いなど聞いているはずもない。
そもそも、この「かくれんぼ」という遊びを、君は知らないのだ。
それでも君は、まるで巧妙に隠れているように思える。
いや、隠れているのかどうかすら、本当は分からない。
僕が勝手にそう思い込んでいるだけかもしれない。

君を探すたびに、僕はアイ色の欠片を思い出す。
あれは僕の中に確かにあったはずのものだ。
けれど僕は嘘を吐いた。「そんなもの、初めから無かった」と。
僕が訪れた場所には、いくつもの奇跡があった。
確かに、それは存在していたのに。

僕たちはきっと、探し物をしているだけなのだ。
ただ、それが何なのか分からないままに。
やがて君と僕は、どこかで出会うだろう。
同じ色の表情で、寄り添う日が来るかもしれない。

でも、僕には分かっている。
僕はもう一歩だけ、勇気を出せば良かったのだ。
その勇気さえあれば、君とこの場所で向き合えたはずだった。
「もう、いいよ。」
君の声に振り向いたとき、
僕の世界は瑕だらけのままで、それでも色を取り戻した。

けれど、どうしても言いたくなる。
「だって君なんて、見つかるはずがない。」
情けない、悲しい声だ。
僕は逃げ出したいのだ。
嘘をついて、嘘の隙間をすり抜けて、
ぶつかって、毒を吐いて、崩れ落ちて、
そんな自分を直視するのが恐ろしい。
嘘の層が、君の本当を覆い隠していく。

僕は行き場を失い、転んだ。
彼らが僕を見ていた。
怪訝そうな目で。
そして慌てて目をそらす。
僕の存在が不快なのだろうか。
それとも、彼らもまた同じなのか。
隠れるために顔を覆い隠し、
自分自身さえ、どこかへ放り出しているのだろうか。

「君は、ゲームが始まる前からずっと、
 顔を隠していたんだろう。」
「もう、遅いよ。」
彼らの声が、ひどく冷たく耳に張り付く。
僕は答えられない。
ただ、言い訳だけを投げつけた。
その言い訳も、闇の中に吸い込まれていく。

でも、分かっているのだ。
君は、本当はずっとここにいたのだ。
僕が目を背けていただけなのだ。
僕だって、最初からずっと、顔を隠していたのだ。
アイ色の欠片を失くしてしまったと、そう思い込んでいただけで。
それでも、遅くはないはずだ。

「失くしたものが見つからないなんて、
 誰が決めた?」

僕は走り出す。
この「かくれんぼ」を終わらせるために。
いや、君を見つけるために。
君に会いたい。君を愛したい。
そして君と別れるのが怖い。
だからこそ、僕は走り続ける。

君の涙が溢れても、
君の声が掠れて消えても、
君の心が遠く離れていても、
僕は叫ぶ。

「今、君を見つけた。」

考察

太宰治風に校正した場合、この物語はより「自己否定」と「他者との隔絶」が色濃く表現されます。太宰の作品に頻出するテーマである「無力感」や「救いへの渇望」が、登場人物の心理に深く刻まれているように感じられます。

アイ色の欠片

「アイ色」は、太宰の描く青白い光のように、希望と絶望の狭間に存在する曖昧な象徴です。主人公が「無かった」と言い張ることで、それを受け入れることへの恐怖が表現されています。アイ色の欠片は、主人公にとって「本来の自分」であり、また「失われたもの」であると言えるでしょう。

隠れることと嘘

太宰風の解釈では、「隠れる」とは自分自身からの逃避を意味します。主人公が嘘をつき続けるのは、他者に対してだけでなく、自分自身にも嘘をついているからです。その嘘が積み重なることで、アイ色の欠片がますます遠ざかり、見つけられなくなる構造が描かれています。

再生への希望

物語の最後に、主人公が「今、君を見つけた」と宣言する場面は、太宰風の虚無感の中にも微かな再生の兆しを表します。「失ったものが見つからない」と思い込んでいた主人公が、その思い込みを打破し、再び向き合おうとする瞬間は、太宰の作品における「救いの余韻」を感じさせます。それは完全な救済ではなく、ただ「もう一度生きてみよう」という微かな一歩です。



朝締め切った
窓も、心も、きつく閉ざされたその部屋には、ただ擬音がひとり歩きしている。耳元で囁くように、あるいは暴力的に響いてくるその音たちが、まるで意識の裂け目を滑り込むかのようだ。

キミ擦り切れた
ぼろぼろと剥がれ落ちるような思念が、気づけば床に散乱している。その中に、かつては鮮やかだった感情の残骸が紛れている。偽った。楽しんだ。それでも、遣り切った――そう信じた瞬間の記憶が、かすかに暖かい。

声にする間もなく、言葉が宙に溶けていく。その切れ端を掴む前に、ふわりと私はどこかへ飛び立ってしまった。「ようこそ」――招かれた場所は、かつて夢見たエデンのようでありながら、どこかぎこちない。

羽ばたくノイズが私を隠す
その音は、翼なのか、罰なのか。蘇る景色の中で、色づいては散っていく音符たちが宙を舞う。心の暗闇から吹き出す旋律が、私を自由にしようとする。

いま どこ? キミ てを かざ した
問いかける相手は、誰だろう? あの日、見知らぬ世界に目覚めた身体。翼を得た私が見つめる先には、つぎはぎのような記憶と、名もなき存在たち。

錆び崩れた意識を瓶に詰めて、飾り物にするような日々。耳を塞ぎ、目を閉じ、自由を求める叫びを聞くたびに、私は何度も生まれ変わる。

飛び込む私を笑顔で見送った
すべてを投げ出すその瞬間、誰かの顔が浮かぶ。それが誰であったのか、何だったのかは、もうわからない。ただ、散りゆく歌が私の全てだったことだけが確かだ。笑えよ、と私は呟く。笑え。崇めよ。そして、さよならを。

考察
太宰治風に仕立てるならば、自己の崩壊と再生、そして孤独と他者への渇望が絡み合う表現が欠かせません。この詩の背後にあるのは、「自由」を求めながらもそれに怯え、「真実」を歌いながらも自分すら信じられない矛盾の連鎖です。

詩中の「飛び込む」という行為は、自己を壊すことで新たに生まれ変わる象徴であり、そこに他者の視線や存在が付与されることで、孤独の中に救済を垣間見ています。これは太宰の「生きたいという叫び」に通じるものがあります。詩の最終行、「笑顔で見送った」に込められた皮肉と哀切が、この作品全体のエッセンスを体現していると言えるでしょう。

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