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アントワネット随一の罪は、“女王としてではなく、女性として幸せになろうとしたこと”
デヴィ婦人の自伝やインタビューでよく出てくる言葉である。シュテファン・ツヴァイクの歴史小説『マリー・アントワネット』では、フランス革命前後の時代に生きた王妃マリー・アントワネットの生涯が描かれている。この作品で強調されているのは、彼女の最大の「罪」が、「女王としてではなく、女性として幸せになろうとしたこと」であるという点だ。このテーマを現代に照らし合わせると、いくつかの教訓が浮かび上がる。
悲劇の王妃 マリー・アントワネット
マリー・アントワネット(1755-1793)は、オーストリアのハプスブルク家に生まれ、14歳でフランス王太子ルイ16世と結婚し、フランス王妃となった。彼女の人生は、贅沢な宮廷生活や華やかな社交活動で知られ、フランス革命期においては王政の象徴として激しい批判を浴びた。特に、彼女の浪費や享楽的な生活が、飢えに苦しむフランス国民の怒りを引き起こし、「パンがなければケーキを食べればいい」という言葉が彼女に起因するものとして広まった。
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フランス革命の激動の中、アントワネットは夫ルイ16世とともに処刑され、その生涯を悲劇的に終えた。
悲劇は偶然か?必然か?
さて、彼女の悲劇は時代がそうさせたのだろうか? 確かに、彼女は若い頃から多くの制限を受けていた。ティーンにして、軍事同盟のための政略結婚をさせられる。女性にとって、結婚というのは人生で最も大切なひとときであると言っても過言ではない。そのような自分の最も大切な時を、政治のために愛してもいない相手と無理やり結婚することになったのだ。
彼女は自分の宿命に抗うかのように豪華な生活、そして自分勝手な振る舞いを行いを行ったのだろうか。しかし、シュテファン・ツヴァイクの『マリー・アントワネット』で強調されているのは、彼女の最大の「罪」が、「女王としてではなく、女性として幸せになろうとしたこと」であるという点なのだ。まずはどのような場面で、マリーが王妃よりも女を選んでしまったのかを見てみよう。
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プチ・トリアノンでの引きこもり
ヴェルサイユ宮殿の喧騒や公式行事を避け、彼女は個人的な空間である「プチ・トリアノン」という小さな離宮にこもり、そこで自由な時間を楽しんだ。この場所でアントワネットは王妃の義務を放棄し、友人たちや取り巻きと過ごすことで個人としての快楽を追求した。王妃としての立場を忘れ、私生活を優先したこの行動は、批判を浴びた
ル・アモー・ド・ラ・レーヌ(王妃の村里)
アントワネットは、ヴェルサイユ宮殿内に本物の田舎風の村を再現し、そこを自分の避難所として使った。彼女はこの「村」で農作業を楽しむなど、田舎風の牧歌的な生活を体験することで、王宮のしがらみから解放され、自分の楽しみを優先する時間を過ごした。この行動は、王妃としての責任を放棄した証拠として批判の的となった
ファッションや贅沢への執着
アントワネットは、豪華なファッションや宝飾品、特に高価なドレスや髪型に大金を費やしたことで知られる。彼女の贅沢な生活は、特にフランスが財政危機にあった時期に、民衆から強く非難された。彼女が女性としての美しさや楽しみを追求することに力を入れ、国政や政治的責任を軽視したことは、民衆に「国家の利益よりも個人の享楽を優先する」王妃というイメージを植え付けた
フェルセン伯爵との愛情
スウェーデンの貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルセン伯爵との親密な関係は、彼女の個人としての幸福追求を象徴している。この関係が単なる友情以上のものであったかどうかは議論の余地があるが、彼女がフェルセンを非常に信頼し、彼との関係を通じて女性としての欲求を満たしていたことは明白である。この親密な関係も、王妃としての立場よりも一人の女性としての幸福を優先していた証拠とみなされた
要するに、女であることの幸せのために、役割、人間関係、慎み、道徳を捨てた。仕事の放棄、女の人間関係問題、女の美しさへのあくまでもの追求、そして異性間の不倫という点で多くの問題を抱え、その歪によって彼女は、夫、息子たち、そして自分の命、なによりもフランスを滅ぼした。
個人の幸せか、自分の役割か
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詳細
麦藁帽子にモスリンのシュミーズドレス姿の王妃(1783年)ヴィジェ・ルブラン画
マリー・アントワネットの人生は、個人の幸せと公的な役割の間での葛藤がもたらした悲劇的な結末の一例として見ることができる。この教訓を「個人の幸せか、自分の役割か」という命題に当てはめ、現代の個人に対してどのように当てはめられるかを提案する。
1. バランスの取り方を学ぶ
マリー・アントワネットは、個人の幸せを求めるあまり、フランス王妃としての責務を十分に果たさなかったことが批判を受ける要因となった。現代の私たちも、仕事や家庭での役割がある中で、個人の幸せや欲求を追求することは重要であるが、それが社会的責任を無視するものであってはならない。自分の役割と幸せの両方に重きを置き、バランスを取ることが成功の鍵となる。
提案:
仕事や家庭生活の中で、自分自身の幸福を確保しつつ、同時に周囲の期待に応えるための時間管理や優先順位のつけ方を学ぶことが大切だ。マリー・アントワネットがプチ・トリアノンにこもり、社会から離れてしまったように、完全に自分の世界に閉じこもることは避け、適度な社会的な責任も果たす姿勢を保つ必要がある。
2. 他者の期待を無視しすぎない
アントワネットは、王妃としての期待に応えなかったことで、民衆や貴族たちの信頼を失った。個人の幸福の追求が他者への責任感を忘れさせることがあるが、全ての期待を無視することは結果的に自分に返ってくることが多い。
提案:
他者の期待を理解し、コミュニケーションを取りながら、どこまでが妥当な期待であるかを探ることが重要である。現代では、職場や家庭で「期待の管理」や「関係性の調整」が個人の幸福にもつながる。必要以上に他者に振り回されることは避けつつも、適度な対応が長期的な関係構築に寄与する。
3. 役割に応じた成長を受け入れる
アントワネットは、王妃としての役割を十分に果たさないまま、自分の欲求に従った結果、フランス革命という大きな歴史的変動の中で批判されることになった。人にはそれぞれ役割があるが、その役割に応じた成長を受け入れなければならない。成長の一部として、個人の幸福と責務の両方を見つめ直す必要がある。
提案:
与えられた役割を成長の一環として捉えることが重要である。役割に忠実でありながらも、自分自身の成長や幸福を無視しないような自己分析を行い、自分にとっての最適な行動を探ることが大切である。
4. 自己満足の危険性を認識する
アントワネットの浪費や享楽的な生活は、自己満足の追求が国民の怒りを呼んだ一因となった。彼女がフェルセン伯爵との親密な関係や、贅沢なファッションに溺れたことは、他者の視点からは非常に無責任に見えた。これは、現代でも自己満足に偏りすぎることが、長期的には人間関係や仕事に悪影響を及ぼすことを示している。
提案:
短期的な欲望を優先するのではなく、長期的な視点からの満足感を追求することが重要だ。自己満足に対して冷静な視点を持ち、自分の行動が周囲にどのような影響を与えるかを常に考慮することで、健全な自己実現が可能になる。
まとめ
マリー・アントワネットの人生は、個人の幸福を追求することが公的な責任を軽視することにつながった場合のリスクを示している。現在社会において、個人の権利や自由がかなり重視される。しかし、現代においても、個人の幸せと社会的役割の間でのバランスを保つことは重要であり、他者の期待を完全に無視することなく、自己成長と幸福を共に追求する方法を見つけることが鍵となるであろう。
マリー・アントワネットの人生から、自分だけでなく隣の人が長期的に見て少しでも幸せになるような、生きていてよかったと思えるような決定をしていきたいと思わずにはいられない。