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100円自販機の多さと民度は反比例する(当社比)

※即興音楽はセッションですがこの話は多分フィクションですし、画像はイメージです。

下町。
どこか牧歌的な響きを持つこの単語から連想されるイメージは、人情に厚い人々が多く商店街や市場も活気があっておっちゃんおばちゃんが威勢よく店を切り盛りしながらその側で奥様方の井戸端会議…なんて三丁目の夕日が似合うような光景を想像した方も多いのでは無いだろうか?
事実、情に溢れた人は多いと思うし活気のある個人商店がまだ生き残ってたりもする。そこそこいろんな人も居て、その町の構成要素の一つとなり得るわけだ。

だが、下町にある個人商店というのは大資本がやってくれば一掃されてしまうような危うさと人々の記憶だけにしか残り得ずそれも忘却の彼方へと誘われる儚さも同時に備えている。
して、馴れ合いとなぁなぁと丼勘定で構成されし下町の雰囲気は結果としてよそ者を受け入れず孤立化していき破滅という終焉を迎えるパターンは何度となく歴史が証明しているのだが、実際問題その渦中に身を置くと残念ながら危機感が薄れてしまうこともある。
勿論、危機感を持って地域を盛り上げつつ状況の変革と改善という高い志の下に行動する者もいるがみたところ80%はそんなこと1mmも考えて無さそうだ。

ことに、こう言う共同体の特徴として「保守的」「極端なまでに変革を嫌う」「外様に厳しい」と言った項目が挙げられる。
一部地域ではその成り立ちや経緯が民度の低下を加速させているところもあり、この二つがセットになるとどうなるかなんていちいち書くまでも無い。

ここでタイトルに話が戻る。
自分は今、上記の要件を完全に満たしてしまった街にいる。
民度は決して高くないし、昼間っから何してんのかよくわかんねーおっさんがワンカップ片手になんてのはザラで夜どこかへ飲みに行けば必ずと言っていいほど一人は「ディープな地の人」がいる。
それはそれで別に構わないのだが、彼等は極端に余所者を警戒し変革を嫌う。
その土地への愛着があることは決して悪いことではないが、歪んだ地元への愛着がその場所を少しずつではあるが確実に破滅へとコマを進める要因となっていることなど彼等は知る由もない。と言うか、その場所を提供している人間ですらその状況を理解していないのだから知る術すら奪われているのだ。

正直なところ、一時期自分はディープな地の人へ片脚を突っ込みかけていた。
元々外様だったが故に溶けこむための努力をしたのだが、完全にあかんベクトルだと気付けたのが幸いだったがもしあのままこの空気に飲まれていたらと思うとゾッとする。
敢えて「外界」と書くが、引き摺り出すキッカケになったのは現在働いている店で飲んでいるときだった。

ふと、「独立した空間」にいると感じたことがあってその心地良さが一体なんなのかを考えると「横の繋がりが深過ぎず浅過ぎない」。

これに尽きる。
そうだ、俺疲れてんだなと確信した瞬間でもあった。

「水は流れ続けることでその清らかさを保ち、留まってしまえば澱んでしまう。」

澱んだ水を好み、
変化を拒み続け、
それが破滅への歩みだと気付いた時には

もう手遅れだろう。

外界との連携を持ちつつ、その土地への還元を行わなければどんどん腐って行く。
もしかしたら、そのうち自分はこの街を離れるかもしれない。

そんな風に思った。

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100円自販機多いところってホンマに…なんていうか…うん。

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