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「アール・イマキュレ」について
アール・ブリュット/アウトサイダー・アートと関連する分野として「アール・イマキュレ」があります。「無垢の(汚れのない)芸術」という意味で、画家の佐藤敬子さんが発案した言葉です。
その後、ジュヌヴィエーブ・ルーラン氏(アール・ブリュット・コレクション元副館長)、酒井哲朗氏(三重県立美術館元館長)、アトリエ・エレマン・プレザン(後述)の三者によって検討された後に提案されました。
「アール・イマキュレ」というのはダウン症の作家さんによる作品のみに使われ(厳密には他の症例の方もおられます)、穏やかで調和のある作風が特徴です――と説明されているのですが、この説明が実はとても興味深いと思いました。というのは「アール・ブリュット」の場合、これはある特定の作風を指す言葉ではないし、作家の属性を定義に含めることも(少なくとも表面上は)ありません。その2点に真っ向から対立しているから。
後述するように「アール・イマキュレ」は「アール・ブリュットとはまったく違うもの」と捉えられているわけですが、最初の考え方の時点ですでに異なっているわけですね。
「アール・イマキュレ」を提唱した佐藤さんは三重県で「アトリエ・エレマン・プレザン」というプライベートアトリエを運営しています。エレマン・プレザン (Elément Présent) は「現在の要素」という意味。
1997年には川崎市民ミュージアムで「無垢なる魂 アトリエ・エレマン・プレザンの作家たち」という展覧会が開催されました。
この図録には「アール・イマキュレ」という言葉はまだ登場していませんが、「精神の自由」「自然との調和」という特徴が 注目されています。
「美術手帖」2009年7月号には人類学者の中沢新一氏による「アール・イマキュレ宣言」という記事があります。
ダウン症の人々の芸術表現には、アウトサイダーアートに特有の暴力性のかけらも見いだせません。平和なその表現を前にしていると、おもわず「イマキュレ(汚れのない)」という宗教のことばが、こぼれ落ちてくるほどです。
ダウン症の人たちの作品にはひとつの共通する“感性”が存在します。穏やかで、静かに伝わってきて調和やリズム感が素晴らしい。アトリエではそれを「アール・イマキュレ」と名づけ、ひとつのジャンルとして美術史上に位置づけていきたいと願っています。ダウン症の人たちは、よい環境があれば描くけれど、描かないからといって満たされないわけでもない、精神的にはとても健全。そこがアール・ブリュットと決定的に違うんですね。
平凡社の『アール・ブリュット アート 日本』(2013年)には、中沢新一氏と保坂健二朗氏(現在は滋賀県立美術館の館長)の対談が掲載されています。
中沢氏はそこでアール・ブリュットの重要な要素として「目」と「戦争」の2つを挙げ、未開的な宗教と関連付けています。しかしダウン症作家の作品を見ると、
ここには、闘争がないんですよ。色彩が戦争しないんです。もう完璧なぐらいの調和を保っている。
保坂 〈中略〉ヴェルフリのような作品に対しては、我々はその作品の深みに立ち入り読み込んで行くんだけれど、それに対して、岡田伸次さんの作品などは、もうその場として、なぜかその作品の前に立ったときに、包まれるみたいな感覚で作品を……。
中沢 本当に場そのものなんだよね。ヴェルフリの作品には、そこに物語がありますね。何か、作品が描く物語の中に入り込んで行くという要素がある。〈中略〉ところが、岡田さんのようなダウン症の方たちが作るアール・イマキュレに関しては、物語の介入のしようがない。しかし、私たちはその場の中に入り込んで行くことができる。この不思議さに、いまだに言語化不能の状態なわけですよ。
文中にある「岡田伸次さん」は「アトリエ・エレマン・プレザン」の作家さんです。
中沢新一氏の『野生の科学』には「第10章 アール・ブリュットの戦争と平和」という章があり、上記のようなことがもっと詳しく記述されています。
さて、「アール・イマキュレ」はこのように「アール・ブリュット」とは異なる次元で位置付けられてきたわけですが、比較対象がアドルフ・ヴェルフリやヘンリー・ダーガーなどの所謂「古典的」作家である点には注意が必要だと思います。
上に引用した文章は2009年と2013年のものです。『野生の科学』の10章も初出は2009年の講演。2025年現在では「アール・ブリュット」と認識される作品や、両者の関係が少々異なってきているのではないでしょうか。
ネット検索で見つけた中では、冒頭にリンクした「アトリエ・エレマン・プレザン(三重県)」が最も新しいのですが、これが2018年の記事。その後、「アトリエ・エレマン・プレザン」は東京のアトリエを2020年に閉鎖し、現在は「Down’s Town」として活動の範囲を広げているようです。
私の印象ですが、現在日本で「アール・ブリュット」として認識される作品は、2009年当時よりもずっと幅が広く、「アール・イマキュレ」と分類されていた作品も包含する分野に成長しているように思います。実際「アール・ブリュット展」に行くとダウン症の作家さんも出展されていますし、似た画風の作品も多数見られます。
もちろん「アール・イマキュレ」が「ダウン症作家による、穏やかで調和のとれた作品」と定義されている以上、「アール・ブリュット」とイコールになるわけではありません。しかしその一分野と考えても良いぐらいの状況にはなってきているのではないでしょうか。
参考文献
『無垢なる魂 アトリエ・エレマン・プレザンの作家たち』(川崎市民ミュージアム 図録)
美術手帖 2009年7月号 特集「アウトサイダー・アートの愛し方」
『アール・ブリュット アート 日本』保坂健二朗編著(平凡社)
『野生の科学』中沢新一(講談社)