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人の優しさの根源は何か〜歳を重ねるほど、人は、「優しくなる」〜

優しい人とはどんな人だろう。

相手の立場になって、相手の思うことや感じることを自分のことのように想像し、受け止めることができる人。
その上で相手に配慮した行動を取れる人。

そんな人が優しい人ではないだろうか。

この解釈に基づけば、優しい行動をするためには、相手がどんな感情をもつかをリアルに想像できることが必要になる。共感する力が不可欠だ。

この共感する力が「優しさ」の根源とも言えるのだが、共感する力は年齢を重ねるほど培われていく、というのがぼくの考えだ。

そのスタートとして、そもそも人の感情とはどんなものか?に立ち返って考えてみたい。

感情には喜びや悲しみなどいくつかのパターンがある。これは正確には情動と呼ばれる。

この情動には長らく信じられてきた理論がある。情動とは、人間に生まれつき備わっているものであり、明確に識別可能な現象である、とする考え方である。これは古典的情動理論とよばれる。

悲しみや怒りは、人間が生まれつきもっている心の状態であり、ある特定の神経回路が活性化して、それに起因して心臓の鼓動や顔の変化といった外的変化を引き起こすものである、という考え方だそうだ。

この古典的情動理論は長らく、そして広く、その正しさを信じられてきた。

しかし、当たり前のように信じられてきたこの理論は実は誤りであるとする新論が提言されている。

怒りや悲しみ、喜びといった情動は、生まれ持ったものではなく、情動ごとに特定の神経回路の活性化パターンも存在していない。人間が学習と予測によって自らが作り出しているものにすぎないとする理論である。これを構成主義的情動理論と呼ぶ。

経験を通じて悲しみなどの概念を学習し、その概念に該当する状況に直面した際には、都度、学習した悲しい状態を自分自身で再現している。

例えば、ある特定の文化のもとで育つことによって、「悲しみ」とは、ある種の身体的な感覚が、無惨な人命の喪失という出来事と一致した場合に生じる現象であることを学ぶ。

そして、「悲しむべき事態」に直面した場合、例えば銃乱射事件による凄惨な殺人事件の知らせを聞いた際には、同様な事件に関する記憶やかつて経験した悲しみに関する記憶を総動員することで、身体がなすべきことをすばやく予測し、この予測によって、心臓の鼓動は速まり、顔面は紅潮し、胃は収縮する。

外部からの得た情報の文脈の理解と、過去の記憶に基づいて、悲しいという体験を自らが作り上げている。

この新たな理論によれば、記憶や経験がぼくたちの感情を作り上げているのであり、その根源たる記憶が豊かになれば、感情も豊かになる、つまり、人の感情を想像する力も、豊かになるのではないだろうか。

人は、子どもの頃、特に5歳に満たないような年齢では、人が悲しんでいてもそれを理解できないことがある。親がつらくて悲しんでいても、それを理解できず、面白がったりさらにひどいことをしでかしたりする。共感性が乏しいことがままあるわけである。

一方で、若き頃は厳格で強面に見えた人も、歳を重ねるにつれて、涙もろくなったり優しくなったりすることもある。

これらは、歳の差による記憶や経験の蓄積量の変化によりもたらされるのではないだろうか。

記憶の蓄積が、歳を重ねることで、着実に増えていき、感情の「ネタ」が豊かになる。共感性が高まり、優しい人になっていく、そんな現象として考えられないだろうか。

また、記憶の蓄積はなにも歳を重ねずとも、経験の多さによっても蓄えることができる。

歳を重ねながらいろんな事にチャレンジし、経験や記憶を蓄積していく。そうして優しい人が形作られていくのではないだろうか。

上記でふれた古典的情動理論や構成主義的情動理論については以下の本から学んだ。ご興味のある方はぜひご一読いただければと思う。

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