声に絡まれた言語のみる夢

文字で理解するより動画の方が理解しやすい。
動画がでキレキレに説明されると「理解」できたと感じる。
「理解」できたか、「理解」できた気がしただけかを判定するのは自分の言葉に落とし込んで、未知の人に説明できるかで判別できる。

言いたいことは分かったけれど腑に落ちない場合がある。人は「腹落ち」しないと行動に至らないものである。しかし、逆に「理解」できなくても「腹落ち」すれば行動するのも人である。

大切のは「腹落ち」なのだ。そしてこの「腹落ち」感の源泉は文字ではなくて、視覚を伴なう音声だ。

視聴覚が「腹落ち」を行動の根拠に誘う。理性は感性の前に拝跪する。
「音声中心主義」への批判は矛先を変えたのだ。

文献を渉猟することで観念に偏った思考に耽るよりも師や同朋、論敵と対坐し口角泡を飛ばし議論する。直接対話するからこその納得を得る。
対話に潜む理性以外の「詐術」に嵌まることを回避するための「音声中心主義」批判が視聴覚を全方位的に簒奪する視聴機器の罠にかかる。

思考の隙間を排除するために字幕も投入される。
音声も書記も映像も物体化し知性を装い偽りの「腹落ち」を五割増しの「理解」を授ける。
この結構を「新音声中心主義」という。
簡潔明瞭は「腹落ち」からの遡行に過ぎない。

「何も足さない、何も減らない」横滑りの換喩は完璧な伝言ゲームである。恣意的な思考ではなく硬直を「歌舞音曲」でトランスさせる。

目指すのはごく普通の知性の発動。