【出版】kindleでエッセイを初出版しました!
こんにちは、レンです。
遂に完成しました!僕のオリジナルエッセイ、電子書籍として出版です!
文字数は33000文字越えの作品となっております。普段のnoteを見てくださる皆様ならお分かり、真っ暗なエッセイになっています。
正直、「明るい未来を知りたい」という人には欠片も意味をなさないエッセイ集。生きづらさを抱えて生きている人には、「わかる!」となる反面、思わず心を痛めてしまうこともあると思います。
さて、今回はそんなエッセイの中身を紹介していきます。
今回のエッセイのお題目はこれだ!
最初に
生きづらいと思うことは一般的らしい
孤独というのは居心地が良い
他人と自分を明確に線引きして生きる
君たちはどうやって生きているの?
「うつ」が一般的に成り過ぎて
努力に意味はないから誇る必要はない。自分が知っておけばいい
僕は、全力で頑張っていたのだろうか?という問いは常に無駄
刺すような寒さが教えてくれた生きた証
隠れて自分を傷つけて
頑丈な心が欲しいのは僕の方だ
僕は今!ここにいると!叫びたい!
特別になれなくていいから普通になりたい
必要とされたいのは、安心感が欲しいから
変化しないことが正義だというのなら僕は悪の道でいいや
茨の道?あぁ、道があることに感謝して整備したら?
疲れて一休みすると、起き上がれなくなった話
最後に
どこにも救いがないようなお題目な理由
昨今、こんなにも、真っ暗なエッセイがあるだろうか。探せばあるかもしれない。少なくとも、あまり多いとは言えないだろう。
だがしかし、僕は最初にエッセイを出すのであれば、これだと決めていました。
だって、今の僕はここ(エッセイに書かれている状態)にいるのだから。これまでの、何も書いていなかった頃の僕は、まぎれもなくこのエッセイに登場するような僕なのです。
どうしようもなく、この世界に絶望して、この世界を楽しめていない人間でした。
今だって、この世界は常に僕の敵に感じています。でも、こうして書いて、少しずつ前を向いております。なので、続巻に続いていくにつれて、徐々に前向きになって行けるように。
僕は最初の一巻目には重たいエッセイを書きたかったです。
折角なのでチラ見せいたします
今回はnoteで僕の記事を読んでくださっている皆様の為に、少しだけ記事の一部をお見せします。今回選んだのは、個人的に好きな話……というか、個人的に重たい話です。
「私はここにいる!」というと、かの有名な涼宮ハルヒの名言です。ある種哲学的な意味も込められている言葉ですが、僕はこの言葉が大好きです。
このnoteも、ある意味では僕がここにいるのだと。
悩みながらも必死に生きているのだと、わめいているにすぎません。
これは、そんなお話です。
僕は今ここにいると叫びたい!
夜の校舎に忍び込んで「ここにいる」と叫んだことはあるだろうか。やってみると、意外と爽快な気分になる。思い切りやり過ぎて喉を潰してしまう事には、注意してほしい。
思い至って行動して、結局のところ「何してるんだろう」という、なんだかセンチメンタルな気分になる。ただ、その時間は思ったよりも孤独を感じないし、不思議なことに充足感のような何かを感じる事ができた。僕は一体、何に満足していたのだろう?きっと、思い通りに行動できたことに満足しただけではないはずだ。
思い返してみれば、この行動のきっかけは、自分の今を見直すことにあった。自分が何処にいるのかなど関係なく、この生きるのも厳しい世界をとにかく嘆きたかった。嘆くだけでは面白みがないし、ストレスも酷かったのでとにかく、誰の邪魔もしないで、叫びたかった。そして、誰にも邪魔されない事も、個人的には重要だ。
騒ぐだけ騒ぎ続けて、最後にわかったのは自分の居場所だけ。結局、生きる事が大変でそれから逃げる事はできないけど、とにもかくにも、今は一歩踏み出してみるしかないことは分かった。それだけは、確かだった。
僕はこの下らないと一蹴されて、誰にも相手にされない問題にどう向き合えばいのだろうか。いや、向き合う必要があるのだろうか。考えてみると、不思議なもので「向きあう必要性」に関しては、答えがすぐに出た。必要はないってね。だって、そうだろ?考えて真面目に向き合ってみて、結局どうなるのだろうか。頭の中ではイメージできても、僕の場合は行動できない事が多いし、逆に心が先に押しつぶされることもある。
悲しいことに、これは現実なんだ。ならば、この大嫌いな現実を、誰かのせいにも世界のせいにも、もちろん自分のせいにもしない。ただ、その嫌な事から目を背けて、自分の好きなことにだけ、集中していけばいい。そう考えた僕が初めにしたのが、「叫ぶ」ことだったんだ。その後は、積み重なっていた本を読み漁り、久しぶりに広辞苑を開いて知らぬ単語に興奮した。
好きなことを、好きなようにやって、面白くない小説を読んだり、意味の分からない哲学書や思想書を読みふけった。結局、何一つ役に立たないし、時間を無駄に浪費したように見える。今思うと、確実に無駄な行動の山で、思い付きで行動しているから、実はダブっている事をしていた時もある。
ただ、思い返してみればそのような日々は「充実」していたんじゃないかと、そう思う。救いは待っていても降りてこないし、探したって容易に見つかるようなものではない。少なくとも、世界は僕ら人間に対して寛容でもなければ、厳しくもない。一番つらい、無関心であり、僕らが勝手に、世界という不可視の何かを作り上げて意識しているだけだった。その世界をちょっと広げて、少しだけ優しくして、そして少しだけ対話する。その機会を手に入れるには、自分と向き合って格闘してみるしかない。
人によっては「興味あることがない」「好きって何」「楽しいって何」という、キツイ段階にいるかもしれない。ならば、まずは心が休める場所を探してみよう。それは、自室なのかもしれないし、実はリビングにあるかもしれない。もっと言えば、家の中は安心できなくて町の中なんて地獄のようだ。だけど、実は裏山に行くと一人で、シーンと静まり返ることができるかもしれない。
可能性の話を始めると何でもありで、なんもできない自分だからこそ多分僕はそうした、意味のない可能性を探求して遊ぶ事に、注目し始めた。それは、最終的には自分との対話になるし、「今、何処にいる?」は、「今。何してる?」に知らずの間に置き換わっていた。僕の苦しさは、未だって変わらないし、きっとこの先も変わらない。ただ、この苦しさも痛みも、もう慣れたし十年は付き合っているのだ。もう、扱い方だって、多少の心得があると思い込むようにしている。
それでも世界が変わらないのは、今の自分が心の底から楽しめていないのは、まだ問題があるからだ。浮き沈みの激しい心なのか、弱い身体なのか、強すぎるストレスなのか。僕自身にだってよくわからないが、無気力で無感情で始めた、特に意識もない「やること探し」は今でもしている。それは、僕自身に新しい世界を見せて、新しい感情を与え、新しい絶望と振り切れない恐怖心を提供してくれる。
何か、面白いことはないだろうか。一瞬でいい、生きる活力が湧きだすような何かが無いだろうか。そんなバカなことを思い切りやってみる、そして今の自分の立ち位置を確認し、どこかの誰かに責任放棄して、自分は別の一歩を踏み出す。
そんなあり方が、嫌に僕にはあっているように思えた。