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「美学」の授業に炊飯器?!

「美学」という授業

私は、一昨年の4月から兵庫県豊岡市にある、主に舞台芸術と観光をメインに教える大学で教鞭をとっている。「専門職大学」という新しい制度に基づいた大学なので、一般の大学に比べ実習科目が非常に多い。私はといえば、その中で、いわゆる「座学」と言われる理論的な科目を担っているが、アクティヴ・ラーニングが推奨されていることもあるし、私自身の20余年の教授経験からも、2時間ぶっ通しで(この大学は一コマ1時間を二コマ通しで行うことが多い)一方的に講義なんぞをしても、学生の集中力がもたないことは重々承知しているので、ほとんどの授業は、ミニワークショップ的な臨場的学びと、なぜそのようなワークショップを行うのかを理論的に詳らかにする考察を取り混ぜながら行っている。そんな中に、「美学」という授業がある。

「美学 (aesthetics)」は、学問体系としては、ドイツのバウムガルテンが創始したとされている。浩瀚で晦渋な、その名も『美学』(1750年刊)という著作の冒頭で、バウムガルテンは、美学をこう定義する。「美学は感性的認識の学である。」

美学はだから、「感性学」でもあるのだ。「美」は、感性を研ぎ澄まさないとわからない…。私は、「美学=感性学」を真に受けて、では「美学」の授業ではとりあえず感性を研ぎ澄ますため、「五感」を一つずつ取り上げ、前述のように、ミニワークショップと理論的考察を組み合わせて授業を展開していった。

「五感」のミニワークショップ

「視覚」の授業。――大学の外に出て、植物を3ピースだけ採取してくる。それらを机上のA4の白紙の上に、全体的にあるいは部分的に載っているというルールのみにしたがって置き、自分なりの「美」を表現する。そして、皆で鑑賞する。

「聴覚」の授業。――図書館になぜかグランドピアノがある。私がその前に座り、ある曲を弾く。学生たちは「何を聴いたか?」「それは美しいか?」、グループでディスカッションをする。私はジョン・ケージの『4分33秒』を演奏した。

「触覚」の授業。――全員アイマスクをして、私が各自の前に置く、ある「もの」を触り、そのディテールを味わう。次にアイマスクを外し、今度は同じものを触ることなく、ひたすら「見る」。そして「触る」ときと「見る」ときの体験の落差について話し合う。

「臭覚」の授業。――教室で、沈香の線香を点す。その匂いを嗅ぎ、その体験を言葉にし、グループでシェアする。

これらすべてのミニワークショップの後に、前述のように理論的考察を加えるが、それを紹介すると長くなるので、省きたい。

そして、「味覚」の授業。――私は、家から炊飯器を運び、研究室で米を炊き、教室に持ち込む。学生たちは、この授業では毎回サプライズにみまわれるが、さすがに今日は炊飯器を持ち込まれたので、唖然としている…。私は、そんな彼(女)らを尻目に、黙々と授業の準備を始める。コロナ禍なので、除菌は怠りなく、ボール状の紙皿に炊き立てのご飯をよそっていく。

「食べる瞑想」

今日のミニワークショップは「食べる瞑想」。――まず、彼(女)らに、ふだん「お米」について抱いているイメージをA4の紙に書いてもらう。何人かに発表してもらうが、「甘い」「おにぎり」「朝ごはん」などが並んでいく。次に、よそったご飯を一人一人の前に配り、私は言う。――「さて、これから食べてもらいますが、次の三つのことに注意しながら食べてください。⑴(ふだんスマホをいじったり家族や友達とおしゃべりしながら食べることがほとんどだろうが)今回は食べることそれ自体に集中して食べてください。⑵(味覚をテーマとしながらも)五感を全開にして食べてください。⑶自分のペースでゆっくり食べてください。

そのように、三つの注意を喚起した後、私は「では、食べてください」と言う。

学生たちは、神妙な面持ちで、がそれぞれのやり方で、食べ始める。口に入れる前にじっと見つめる者、目を瞑って匂いを嗅ぐ者、おもむろに口に入れる者など、千差万別だ。

あらかた食べ終わった頃を見計らって、「では、今食べて感じたこと・体験したことを、先程の紙の裏に書いてみてください。」と、私は告げる。書く形式、分量は自由で、「作品」ではないので完成させる必要はありませんと、付け加える。彼(女)らは、自らの体験を反芻しながら、なんとか紙に書き連ねていく。

7、8分経ったところで、私は、3、4人のグループを作るよう促す。そして次の作業をしてくださいという。⑴各自順番に書いたものを読みあう・聴きあう。⑵最初に書いたお米についての「イメージ」と、今感じた「体験」とを比較する。⑶各自が感じたこと・体験したことの共通点・相違点について話し合う。⑷体験を言葉にするときの難しさ(人によっては容易さ)について話し合う。

あらかたディスカッションが落ち着いた頃合いを見計らって、各グループでどんなことが話されたかを全体にフィードバックしてもらう。実にさまざまな感想・意見が飛び交う。⑵に関しては、「イメージ」と「体験」の間に共通点もあるが、大方はこんなにじっくりお米を味わって食べたことがないので、特に自分の唾液と米の旨味が混じり合う様に改めていろいろな気づきをえる。

⑶に関しては、これまた各自の体験の間に共通するところが多少はあるが、まずその体験へのアプローチの仕方が人それぞれで、匂いから入る者、見た目から入る者、やにわに味わうことから入る者など、しかも体験に各自のお米に関する個人的な記憶・情景が重なってきて、独自の倍音を醸し出す。

⑷に関しては、比較的容易に言葉を紡ぎ出し、場合によっては非常に「詩的な」表現にまで昇華できる者もいれば、逆にもどかしいくらいに苦慮する者まで、千差万別だ。

理論的考察

グループ・ディスカッションのフィードバックを終えた後、私はなぜこのようなワークを行なったのか、理論的考察を加える。

① 「現実」とは?――ふだん「リアル」なお米を食べて「おいしい」と思い込んでいるかもしれない。しかし、本当にそうだろうか。もしかしたら、イメージ・記号・情報としての「お米」を食べているにすぎないのではないか。皆が今ここで食べることに集中して感じた“こと”は何なのか? ふだんの「リアル」の背後にもう一つの“リアル”が隠れているのではないか。それが、今回の体験で露呈したのではないか。
② 「他者」とは?――皆、「同じ」お米を食べた。にもかかわらず、各自の感じたこと、体験したことのあいだには、様々な“ちがい”があったのではないか。ふだんは「おいしい!」という「同じ」言葉=一般化によって、その“ちがい”が覆い隠されているのではないか。しかし今回は、その“ちがい”、絶対的な差異としての他者性が現出したのではないか。
③ 「言語」とは?――言語は、通常、今言ったように、物事を一般化し伝達する手段として考えられている。たとえば、「今ここに14人の人がいる」と、私は、今ここにいないある人に伝えることができる。しかし、「14人の人がいる」という情報以外のあらゆる物事、たとえばそれらの「人」それぞれがどのような特徴をもっているなどの“特異性”は、ことごとく取りこぼされる。言語は、そうして物事を一般化する機能をもつゆえに、皆がお米を食べながら感じた“特異性”を表現するのに苦労したはずだ。しかし、言葉の役割はそれだけではない。言葉はときに、その“特異性”を奇跡的に表現することができることがある。それこそが、ある種の「文学」であり、詩である。皆の書いたものもまた、もしかすると「文学」の始まりなのかもしれない。

「教室」が「茶室」に

私、そして学生たちの味覚への考察は、さらに続く。味覚ないし食における「美」とは?と問い、いわゆる「美食」とはいかなる事態なのかについて探究していく。しかも、西洋と東洋の「美食」の大いなる違いを、フランスの美食家ブリア=サヴァランと日本の美食家北大路魯山人とを対照しながら、論じていく。(この二つの「美食」に関する考察はすでにこの連載で論じた。)

こうして、私の「美学」の授業は、バウムガルテンのいたってドイツ的に堅苦しい定義から始まりつつ、五感を、臨場的に揺さぶるワークと、その揺さぶりを理論的に補強する考察を織り交ぜながら、とりあえずの総括として、五感を順番に協奏させていく翌週の授業へと移っていく。

これまで五感にいわば微分していた感性的体験を今度は積分することによって、「教室」をにわか仕立ての「茶室」へと変容させていく。無機質で無味乾燥としていた空間が、徐々に感覚的に息づき始め、しまいには官能的とすら感じとれるほど、共感覚的に荘厳された時空間が現出してしまう。

私たちは、はたして教室にいるのか、茶室にいるのか、各自のマインドセットがどこまでもたゆたいつづける…。

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