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「雑談」を少しあらたまって言うと「対話」になる件 斎藤環氏の災厄論

▼2011年の東日本大震災と、現下(2021年春)のコロナ禍との共通点を探る試みが2021年3月12日付の毎日新聞で行われていた。

精神科医の斎藤環氏のインタビューから。

〈結論求めぬ「対話」こそ〉

▼まず、「ケガレ」意識による差別について。

ここでいう「ケガレ」は、「放射能の汚染」(東日本大震災における)や、「コロナウイルス感染」(今回のコロナ禍における)のことだ。斎藤氏は、東日本大震災のほうが深刻だったと考えるが、筆者は、ウイルス感染をめぐってこれほどまでの差別が起こったことに、そしてそれはたしかに「ケガレ」意識にもとづくものであるために、東日本大震災時に劣らず深刻であると考える。

この問題は、神道の教義が日本社会に与えている深い影響について考えるきっかけになるが、しばらくこれを措(お)く。

▼斎藤氏は、女性の自殺の増加に焦点を当てる。適宜改行と太字。

東日本大震災の時、仮設住宅で女性たちはおしゃべりで互いを支え合った。むしろ男性の孤立やアルコール依存の方が深刻だった。女性は横のつながり、愚痴をこぼしたり相談したりできるソーシャルキャピタルが豊富なのだ。

しかしコロナ禍では「3密」禁止や「ステイホーム」が叫ばれ、ソーシャルキャピタルが激減したことが女性の自殺率を押し上げているのではないか。

もちろん、女性が背負わされている仕事や育児の困難、家庭内のストレスも背景にあるだろう。

▼だからこそ、「おしゃべり」が大事だと斎藤氏は語る。

ここで斎藤氏は「対話」という言葉を選んでいる。「対話」にはさまざまな定義があるから、斎藤氏の定義の一択ではない。

ここで使われている「対話」は、これまでの斎藤氏の文脈で言うと、明らかに「雑談」である。

この毎日インタビューでも、「対話」とは、〈議論よりも対話。結論を出さない、説得をしない、それぞれの主観の交換であると理解しながら、それぞれの主観をただ述べ合う〉というものだと語る。

これは、「結論を出さない」「説得をしない」という点で、「雑談」と同じだ。それを、ちょっと難しい言葉で「主観の交換」とも言えるわけだ。

主観の交換が対話だ、というと、筆者は「そうかな?」と少し違和感を覚えるが、「対話」を「雑談」と読み替えると、より明快になる。

▼「雑談」は、「意味」のあるもの(たとえば、金儲けにつながること)ばかり追い求めたり、「エコーチェンバー」の内側に閉じこもってーー当の本人はインターネットを使って「外側に開かれている」と思い違いをしている場合もあるから、なおさら厄介(やっかい)なのだが、その問題は今は措(お)くーー精神的なオナニーに耽(ふけ)っていたりするばかりの人には、残念ながら無縁なことだ。

▼雑談は、生命の危機を救う。とくに災害時においては。

▼雑談には、強張(こわば)らず、力を抜いて、文明を相対化する力が秘められている。

(2021年3月22日)

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