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終戦記念日の新聞を読む2019(1)高知新聞「小社会」~特攻した子の親

▼ふと気がついた時、オンラインで読めるブロック紙、県紙のコラムにはなるべく目を通す。一年のうちに、何回かそういう日があって、8月15日付も、そのうちの一日だ。

この日は、どのコラムもだいたい力が入っている。今年の2019年8月15日付は、日本経済新聞と高知新聞が、全篇にわたって読ませる良質な内容だった。

▼日経は読む人も多いので、後回しにして、高知新聞の「小社会」を紹介しよう。

〈飛行機はいつの時代も少年少女の憧れの的だ。鳥のように大空を自由に飛びたい。1925(大正14)年に生まれ、夜須村(現香南市夜須町)で育った山崎祐則さんもその1人だった。

 漫画が得意で、旧制城東中(現追手前高)時代のペンネームは「青空高士(たかし)」。空へのこだわりが分かる。42年ついに夢がかなうが、それは海軍飛行予科練習生(予科練)だった。

 きょうまでの会期で高知市内で開かれている「まんがが伝える戦争と平和」展を見学した。山崎さんの力作や入隊後に家族に宛てたイラスト入りの手紙の数々が紹介されている。

 訓練は相当厳しかったはずだが、仲間との生活や飛行機を描いた作品はどこかほのぼのとしている。手紙も家族の健康を気遣う優しさであふれる。だが戦況が悪化すると、軍は純朴な若いパイロットたちを「兵器」にした。

 45年2月の手紙。「一昨日、家の上空二千メートルの近くまで私は帰りましたよ」。特別外出が突然許可されたという。青年はその訳を知っていたに違いない。神奈川から高知上空まで飛来し、故郷の風景を心に焼き付けた。誰にも会うことのない最後の「里帰り」だった。

 翌月、鹿児島から飛び立った山崎さんは米艦に特攻し、海に散った。19歳だった。彼の最後の言葉が家族に届けられた貯金通帳にしたためられていた。「父上様母上様お元気で サヨウナラ」。終戦から74年。反戦平和の使命を改めて思う。〉

▼いいコラムだ。少年の大空への憧れから始まり、その憧れは予期せぬかたちで叶う。

戦争を知っている世代の人なら、いろいろな軍歌を思い出すだろうし、戦争を知らない世代の人なら、ブルーハーツの「月の爆撃機」や、荒井由実の「ひこうき雲」を思い出す場合もあるだろう。

▼残酷な「里帰り」と、19歳の貯金通帳の「絶筆」と。この短いコラムのなかには、戦場のリアルな話も、人を殺したり、殺されたりする話も出てこない。しかし、21世紀の各地で行われている、人間を使った「スーサイド・ボム(自殺爆弾)」の由来になったカミカゼーー日本軍の特攻ーーを通して、戦争の悲惨さが、国家の冷酷無慈悲さが、読む者の胸に焼き付けられる。

▼のちに「里帰り」の事実を知り、「絶筆」の内容を知ったお父さんは、そしてお母さんは、いったいどんな気持ちになったのだろうか。その後、どのように生きたのだろうか。そのことを、短いコラムには、書くスペースがない。しかし、たとえ書かれていなくても、子を持つ親ならば、胸をかきむしるような気持ちになるだろうことが想像できるだろう。

特攻した子と、その親の、絶望と怒りと悲しみを知った時、特攻は決して美化などできない、ということがわかるし、国策に利用してはならない、ということもわかる。

▼厭戦(えんせん)を反戦に転化するためにはーーつまり、必ず消えてしまう感情から、決して消えない思想をつくるにはーーどうしても、簡単な「論理」の力が必要になる。

大切な「何か」を消さないためにこそ、「論理の炉(ろ)」をくぐらせる必要がある。

そのためには、まず考える対象をーーこの場合は「戦争」をーー相対化する必要がある。このコラムは、戦争を見事に相対化している。しかし、論理の炉をくぐらせるには、おそらくは分量が足りない。

▼しかし、こうしたかたちで「戦争を相対化する力」が、マスメディアにはある。この力が一定程度を超えて弱まった時、祖国に戦争が近づくだろう。

その境界線は、はっきりわかるものなのだろうか。おそらく、わかるものなのだろうと思う。

筆者にはよくわからない。(つづく)

(2019年8月18日)

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