「事実としては正しいが、実質的には虚偽」--ゴーン氏逮捕で考える

▼日産のゴーン氏逮捕をめぐって、日本のメディア関係者にとっては悩ましい問題が起こっている。ゴーン氏の拘留が長引き、案の定、海外メディアの批判が大きくなってきた。

数日前の〈ゴーン氏逮捕の謎ーー有価証券報告書とフランスの国策〉で、〈会社の内紛に特捜が介入したのか、もっと大きな構図があるのか、謎が多い逮捕劇だ。また、海外からみれば、日本のマスメディアの殺到の異常さや、非人道的な拘留など司法制度のひどさが問題視されるだろう。〉と書いたが、いわゆる「人質司法」に象徴される日本の諸問題が、「文明国」とか「民主主義の国」ではありえない、人権無視の実態として広く報道され始めている。ウォールストリートジャーナルの2018年11月27日更新の社説が典型的だ。

ゴーン氏取り調べの不可解さ/逮捕劇と日産会長解任がはらむ危険
〈かつてある企業の救世主だと称賛された元最高経営責任者(CEO)が空港で逮捕された。起訴されずに何日も勾留され、弁護士の同席なしに検察官の尋問を受けている。不正な金融取引の疑いがあるとメディアがリーク情報を流すなか、会社でのポストも解任された。/共産党が支配する中国の話だろうか。いや、資本主義の日本で起きたことだ。日産自動車のカルロス・ゴーン前会長は不可解な取り調べに耐えている。〉

▼以下に列挙されている項目は、おそらく日本式の司法に慣れている人にとっては「常識」であり、なぜ騒がれるのかさっぱりわからないことだらけだろう。

〈日産を倒産の危機から救ったとして、ゴーン前会長が日本で絶賛を浴びたのはそれほど昔のことではない。だが今や、同容疑者は期限を定めずに拘置所に入れられ、家族との接触も、自分の名誉を擁護することも許されていない。自らの運命を知ることなく社用ジェット機で到着し、即座に逮捕された。日本人弁護士と2回ほど話し、レバノンとフランスの外交官に面会することができただけだ。

 日本の法律では逮捕後の容疑者を48時間まで身柄拘束できるが、裁判所が認めると10日間は起訴手続きなしに勾留でき、この期間はさらに10日間の更新ができる。その後、容疑を切り替えて再逮捕することも可能だ。〉

▼しかし、これに続く二つの文章を読むと、日本式の司法に慣れた感覚と、そうでない人の感覚と、どちらが真っ当か、立ち止まって考え始める人も多かろう。

〈だがそのような処遇は、不正行為や私的金融取引を行った前歴がない国際的なCEOよりも、ヤクザにこそふさわしい。日本の検察当局は、不正会計問題に揺れた東芝やオリンパスの容疑者に対してこのような扱いをしなかったはずだ。

▼もっともな指摘だ。東芝やオリンパスと比べると(両社とも、とてもひどいことをやらかした)、日産のゴーン氏だけ、扱いのひどさが突出しているのだ。WSJ社説は、司法制度の問題だけでなく、ゴーン氏の罪状についても問題点を幾つも挙げている。これらは残念ながら、日本のマスメディアだけを読んでいたらほとんど得られない視点だ。日本のマスメディアでは今、特捜部の話+日産幹部の話が大勢を占めているからだ。

筆者は〈有価証券報告書は、会社としてつくるものであり、個人がつくるものではない。だから虚偽記載があれば、まず会社と、監査法人が責任を問われるはずだ。なぜゴーン氏個人がいきなり東京地検特捜部に逮捕されるのか、意味がわからない〉と書いたが、このWSJ社説では同じことをもっと詳しく書いていた。

〈メディアが報じる罪状について奇妙なのは、日産がずっと前にそのことに気づくべきだった点だ。報道によるとゴーン容疑者は5年間にわたり、約4400万ドル(50億円)の繰り延べ報酬を報告書に記載しなかった。だが日産は、財務情報開示において繰り延べ報酬を報告する義務があっただろう。社内外の監査人、それに最高財務責任者(CFO)はどこにいたのだろうか。

〈日産は米国人幹部のグレッグ・ケリー前代表取締役がこの報酬計画の黒幕だと主張する。ケリー容疑者も逮捕され、外部との連絡を絶たれている。だが仮に2人の容疑者が日産に気づかれないようにこれをやり通せたのだとしたら、同社は未公表の繰り延べ報酬よりもむしろ内部統制に重大な問題を抱えていると思われる。

▼これからどんどん新しい「発表」があり、「事実」が出てくるだろう。これは古くて新しい問題であり、新しくて古い問題だ。

アメリカのケネディ大統領が暗殺された後、新任のジョンソン大統領の指示で、マクナマラ国防長官がベトナムに飛んだ。帰国後、マクナマラ国防長官は記者会見で、ベトナム戦争の戦局は明るいことを話し、その記者会見の後、ホワイトハウスに戻り、ジョンソン大統領に戦局は悪化していることを報告した。この矛盾は、ニューヨーク・タイムズとワシントン・ポストが報じた秘密文書「ペンタゴン・ペーパーズ」で明らかになった。2017年の映画「ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書」ではワシントン・ポストの戦いがわかりやすく描かれている。

〈マクナマラは記者会見でうそをついた。ペンタゴン・ペーパーズは、彼が考えたことやなにを大統領に報告したか、真実を示している。その話には真実と偽りさえもふくんでいる。報道機関はマクナマラが記者会見で話したことを正確に伝えたが、彼が知っていた真実をつかんでいなかった。〉(ビル・コヴァッチ、トム・ローゼンスティール『ジャーナリズムの原則』38頁、日本経済評論社、2002年、原著は2001年)

真実にはいくつかの階層がある。最も深い層の真実は、すぐにわからないことも多いし、ついにわからないままのことも多い。〈報道機関はマクナマラが記者会見で話したことを正確に伝えたが、彼が知っていた真実をつかんでいなかった〉という一文の「マクナマラ」を、別の人ーー安倍総理でもいいし、特捜の検事でもいいし、「関係者」でもいい--に置き換えれば、無数の同工異曲が生まれる。

これまでマスメディアが〈事実としては正しいものの、実質的には虚偽〉(48頁)を報じていたケースは、数えきれない。そして、実質的な虚偽を報道した責任は、少なくとも法律的には問われない。そのとき「マクナマラ」が何かを話したのは、紛れもない「事実」であり、マスメディアは「虚偽」を報道したわけではないからだ。

▼これだけでも、とても厄介な問題なのに、さらに2018年以降の日本社会が抱え続ける問題がある。それは、次の一文が成り立たなくなるかもしれない、という懸念である。

〈情報が真実であってほしい、というのは基本要素である。ニュースは、人びとが自分を超えた世界を学び考えるための材料であるから、質的に最も重要なのは、それが使うことができ信頼できるか、である。明日は雨になるのか。この先渋滞しているのか。私のチームは勝ったのか。大統領はなんといったのか。つまり、真実は、知ることで高められる安心感を作りだすだけでなく、ニュースの本質である。〉(同、39-40頁)

今、〈ニュースは、人びとが自分を超えた世界を学び考えるための材料〉として消費されているだろうか。「自分を超えた世界」を無視して、「自分化された世界」で心地よく過ごすための材料になっていないだろうか。

▼24時間ひっきりなしにニュースが流れる社会では、どうしても、一時点で、局所的には、「事実としては正しいものの、実質的には虚偽」の記事に振り回されることが多い。たとえば、大物が逮捕される現場をスクープできる、他紙を出し抜ける、となれば、資本主義社会に生きるメディア産業の人間として、そのチャンスを逃す手はない。

ただし〈ジャーナリスティックな真実というものは、記事の第一報が出た日にはじまり、その後時間をかけて築かれていくプロセス、もしくは理解に向けた持続的な行程として理解する方が、より有用で現実的である。〉(『ジャーナリズムの原則』49頁)という定義に、筆者は同意する。

ゴーン氏逮捕の「真実」はまだわからない。ジャーナリズムとは「過程」だ。ラグビーの波状攻撃のようなものだ。そして、ゴーン氏逮捕をめぐるニュースに限らず、下記のようなパターンにあてはまる記事を多く読みたいと願う。

〈ジャーナリズムは情報を丸裸にすることで混乱した世界で真実を得ようとする。はじめの誤報や偽の情報、自己宣伝など付加された情報をとりさり、それから社会の反応を待ち、整理のプロセスを確保する。真実の探求は対話になる。〉(51頁)

(2018年12月1日)

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