「がん」の擬似科学にご用心ーー林田哲氏の「論点100」に学ぶ

▼松田美佐氏の『うわさとは何か』を紹介した時、「あいまいさへの耐性」というキーワードに焦点を当てた。

▼この「あいまいさ」につけこむ商売が、『文藝春秋オピニオン 2019年の論点100』で紹介されていた。慶應義塾大学病院ブレストセンター長である林田哲氏の論考。

〈がん治療になぜ疑似科学が跋扈(ばっこ)するのか〉

▼疑似科学がのさばる理由は、「医療に内在する伝統・経験の蓄積」と、「現代科学」との間に、境界線があり、その境界線が「曖昧(あいまい)」だからだという。

〈例えば、普段健康な若者が、咳や喉の痛みなどの症状で病院に行けば、医師は大がかりな検査を行わずとも風邪と診断し、症状を抑える薬を処方し、暖かくしてよく休養をとるよう指示する。これはヒポクラテスの時代から変わっておらず、この判断に現代科学は介入していない。先人の知恵が現代の医療現場に活かされている事例は数多く存在するが、これらと現代科学との境界線をはっきりと引くことの難しさが、疑似科学の医療への親和性を高めている。〉(266頁)

▼この指摘を読んで筆者は、初めて「古代からの知恵」と「現代科学としての医学」との違いを自覚した。言われてみればたしかにそうだが、言われないと気づかなかった。

▼さて、論題の「がん治療」について。

〈最終的な結末はがんによる「死」であるため、治療の過程や長さに価値を見いださない人や、逆によりよい医療を求めて独自の情報収集を行い、お金に糸目をつけず治療を行う人が存在する。とりわけ富裕層や社会的ステータスの高い人は、「一般病院で行われる保険診療よりも、自身にふさわしい、プレミアムな治療が世界のどこかに存在する」と考えがちである。金儲けを目的とした疑似科学はこのような人々を標的としている。著名人がこうした“治療”にはまる頻度が高いように見えるのは、決して偶然ではない。〉(266-267頁)

この文章は、疑似科学にひっかかってしまう人間の心理を、明快に解きほぐしている。富裕層になったり、社会的ステータスが高くなったりしても、それが「幸福」と結びつくわけではない、お金も立場も「幸福」をなんら保証しない、むしろ「幸福」の足かせになりうる、ということがよくわかる。

がん治療をめぐる疑似科学は、「あいまいさへの耐性」を鍛えることの重要性を痛感させるいい事例だ。

▼疑似科学は、科学のプロセスをすっ飛ばす。

〈「がんは放置しろ」という主張もある。これが一理あると言うならば、詳細な研究計画を作成して、倫理性を担保しつつ科学的な検証を行い、専門家の検証(査読)に耐える統計学的な論理性を示すべきである。科学的な検証のないままがん放置を推奨する“理論”を書いた一般書を出版し、たとえベストセラーになろうとも、そこに科学的な説得力はない。〉(277頁)

文章の調子から、林田氏がかなり怒っていることがわかる。

▼この論考の結論である、〈標準治療こそ、世界中の研究者の努力と多くの患者の協力によって生まれた人類の叡智の結晶である。患者の年齢や収入などの身体的・社会的な背景に留意しつつ、可能な限りこのガイドラインに沿った医療を高いレベルでがん患者に提供できる医師が名医である。〉という文章からは、「先人の知恵」と「科学」との間によこたわる「あいまいさへの耐性」こそが、よき医療従事者の条件であることが垣間見える。

「あいまいさへの耐性」が強ければ、人生を豊かにする場合がある。これは患者にとって、より強く当てはまる法則だろう。

(2019年1月9日)

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?