法人は個人を守らない話 その2 小学館の社内向け説明文を読む
▼芦原妃名子氏の死について、多くのマンガ家、作家、脚本家たちがSNSにコメントを書いている。今号では、以下の6つの報道やコメントを読んで考えた。適宜抜粋、改行。
A)2024年2月7日/東京スポーツ/小学館の社内説明会の詳報
B)2024年2月7日午後/Business Journal/これまでのまとめ記事
C)2024年2月8日朝/東京スポーツ/小学館「ゼロ回答」の分析
D)2024年2月8日午後/スポーツニッポン/相沢友子氏のコメント報道
E)2024年2月8日夕方/小学館第一コミック局の声明報道
F)2024年2月8日/惣領冬実氏のコメント
▼まず、AとBを読んで、2月7日までに書いたメモをコピーする。
▼法人は裁判を嫌う。法人の根拠は法律だからだ。法人のアイデンティティーは、法律の世界のみにある。法人は、法律の世界で傷がつくのを極端に嫌がる。
今回の芦原氏の件で、法人は何もしないだろう。すでに当事者がいないのだから、誰も裁判を起こさないからだ。「著作者人格権」は、本人の死後も、ある。とても強い権利だ。だから、遺族が訴えることは可能だが、その可能性は低い。
▼今回の問題を起こしてしまった構造には、法人が「著作者人格権」を蹂躙(じゅうりん)する構造が骨絡みである。ただし筆者は、原作者の人権を蹂躙して恥じない「テレビ業界や出版業界の長年の構造」と同時に、「SNSの存在」を十分に考える必要がある、と考える。
この両者の、どちらかを視界から外すと、ピントがぶれる。後述する、2月6日に行われた小学館の社内説明会の様子を報じた東京スポーツの記事を読んで、そう考えた。
▼芦原氏の死について、このままだと法人は「何もなかった」と判断し、普段どおりの行動を続ける。それは、まったく違法ではない。違法でないのだから、記者会見を開くはずもない。法人はこれまでどおり存続する。
▼例外がある。その例外が起こるには、二つの条件がある。一つは【いつまで経ってもたくさんの個人が忘れない】ことだ。もう一つは【個人が連帯し、何らかの行動を起こす】ことだ。この二つが重なれば、法人にとって「何かしたほうが得」になる場合がある。
言動の善悪とか、尊厳とか、そういう個人の領分の話では、法人は動かない。法人に尊厳はない。善悪の基準もない。
そもそも法人は病気にもならないし、死なない。個人の生と死は、法人に関係ない。法人の生態は、概(おおむ)ね「合法か否か」に懸かっている。
▼また、資本主義のルールに従う法人は、すべて「今すぐに、1円でも効率的に金儲けする」論理に従う。だから、損を嫌う。不買運動なども、もちろん嫌う。
▼なお、日本テレビのドラマ「セクシー田中さん」のプロデューサーである三上絵里子氏がまったく表に出てこないのは、言わずもがなだが、三上氏が「法人化された人間」だからだ。つまり、三上氏は現在、個人としての意思もなければ、声も持っていない。
しかし、三上氏は個人である。法人が守る対象ではない。今は「法人が、法人自身を守るため」に、たまたま三上氏を守っている状態だ。上記の例外が起こると、法人は瞬時にそれまでの判断を変える。
法人は、法人を守る。個人を守らない。
▼小学館が2024年2月6日、珍妙な動きをした。社内説明会を開き、この件について、社外への説明は一切行わない、と説明したそうだ。
〈芦原さん死去で小学館が社内説明会 日テレと良好関係、SNS運用に課題「痛恨の極み」/東京スポーツ/2/7(水) 18:02配信
昨年10月期放送の日本テレビドラマ「セクシー田中さん」の原作者で漫画家の芦原妃名子さん(享年50)が急死したことを受け、小学館が6日に社員向けの説明会を開催。その内容をキャッチした。
午後2時から会議室とオンライン視聴で開かれた全社員参加の説明会は40分ほど。会議室内で参加した一部の社員からは質問が数点飛んだというが、紛糾することはなかったという。同日、社員宛てに説明会の概要をまとめたメールが送信された。発表者は海老原高明専務取締役。
芦原さんと社員への謝罪から始まった概要説明文では、一連の「セクシー田中さん」問題に関しての経緯、小学館に寄稿する作者への小学館の姿勢、社員のケアの順で説明がなされた。
一連の経緯については「『セクシー田中さん』の番組は、芦原先生のドラマ化に際しての要望を担当グループが日本テレビに伝え、制作、放映されました。担当グループは芦原先生に常に寄り添い、忠実に詳細に先方に伝え、対応しました。経緯をみると、昨春より担当グループは誠実に対応しています」と報告。
芦原さんは1月26日にSNSで「この文章を書くにあたって、私と小学館で改めて時系列にそって事実関係を再確認し、文章の内容も小学館と確認して書いています」「この文章の内容は私達の側で起こった事実」と記しており、両者で密な関係を築いていたという。
その上で「放映されたドラマそのものは、芦原先生、小学館も了承し、要望に応えていただいた日本テレビに感謝している作品であることをご理解ください」とした。
小学館にとってイレギュラーだったのはSNS上での〝応酬〟だった。「芦原先生に大きな精神的な負担を強いてしまいました。これはXを削除されたことからも明白と思います。SNSの運用、使用に関して、日頃より社内での注意喚起などしてきましたが、今回の事態にあたり、SNSでの発信が適切ではなかったという指摘は否めません。会社として、痛恨の極みです」
今回の問題を受け、原作者の権利がクローズアップされている。 「今回の事態で、漫画家、作家の方々、関係者に多大なご心配をおかけしております。小学館は、過去も現在も未来も、漫画、文芸、ノンフィクションなど、ご寄稿いただく執筆者の方々に100%寄り添い、創作活動をバックアップし、少しでも世の中が良くなるために種をまきたいという小学館のパーパスのもと、出版活動をしていきます。今後、各編集局、編集部から随時、先生方へ説明するつもりです」
会社としては「この事態に関連して、社員、関係者へのSNS等での誹謗・中傷は会社として絶対に許せません。悪質なものは会社として法的な手段をとります」と宣言。
一方で「こうした経緯、事情について、現時点では小学館として自ら社外に発信する予定はありません」「芦原先生が、悩まれて発信したXを、〈攻撃するつもりはなかった〉という一文とともに削除されたことを鑑み、故人の遺志にそぐわないと思うからです」とも付け加えた。〉
▼この記事を読んで、二つのことを考えた。
一、「故人の遺志」
二、「SNSでの発信が適切ではなかった」
▼まず、一、「故人の遺志」。これは、先に書いた例外が起こる兆しと捉えることもできる。小学館は、今回の経緯を対外的に一言も説明しない唯一の理由として、法人である自分とは何の関係もない「個人」の存在を持ち出し、しかもその個人は「故人」であるにもかかわらず、その「遺志」をも持ち出した。
この、法人として異常な出来事の周りを、当然のことながら、SNSが囲っている。それはあとで書くとして、社内向け説明で言及された「故人の遺志」とは何かを考える。
▼芦原氏がXに最後に投稿したのは、2024年1月28日13時11分。
〈攻撃したかったわけじゃなくて。
ごめんなさい。〉
▼芦原氏には、まず、自分がテレビドラマの第9話、第10話の脚本を担当せざるを得なかった経緯を、どうしても説明したいという猛烈な意思があった。それも、視聴者への謝罪文として。小学館も、その謝罪文の作成に協力した。
そうしたら、自分の謝罪文が、SNSの中で、相沢氏や、日本テレビへの、思いも寄らない攻撃を生んでしまったから、謝罪文を削除した。
上記の最後の投稿は、少なくとも、この二つの段階を経て書かれた。
▼小学館は、後者のみを芦原氏の「最期の遺志」と定義した。
それは正解だろうか。筆者は違うと思う。【謝罪文を削除した後に】、そして【旧Twitterに再び「ごめんなさい。」と謝罪を投稿した後に】、さらに芦原氏が死の間際、何を考えていたのか。この世の旅の終わりに、この世に放った「遺志」は何だったのか。誰にもわからない。遺書を読めばわかるかもしれない。読んでもわからないかもしれない。
社内向け説明にもあったとおり、芦原氏はあの長い謝罪文を〈悩まれて発信した〉のだ。そういえば、芦原氏によれば、小学館自身が謝罪文作成に協力したはずだが、この点に、社内向け説明は言及していない。
▼芦原氏が悩んだ末に発信した謝罪文を、小学館は「故人の遺志」ではないと判断した。
そもそも、法人に託されていない故人の遺志など、法人が口を出す領分ではない。筆者はこの「故人の遺志」という一言を目にして、分(ぶん)を弁(わきま)える、という言葉や、身の程(ほど)知らず、という言葉を思い出した。
小学館は、法人の分際であるわが身の程を冷静に弁(わきま)え、出過ぎた真似は控えたほうがいい。
▼もしも「故人の遺志」を語るのであれば、自らも故人とともにその作成に関わった謝罪文の経緯について、より丁寧に語ることこそ、筋(すじ)だと考える。
とはいえ、それは小学館という法人が「創作活動をバックアップし、少しでも世の中が良くなるために種をまきたい」と願っているのならば、の話だが。
▼芦原氏の名前で発信された脚本問題の経緯の説明と、視聴者への謝罪。これに法人は関わった。「故人の遺志」がどうあれ、そこに法人の責任はある。しかし、繰り返すが、社内向け説明に、この事実への言及はなかった。
もしかしたら、その説明を始めると、別の不都合が生じたり、法的責任が生じたりする可能性があるのかもしれない。たとえば、故人の代理人として日本テレビとの間で交わされた契約の関係で。
▼これから小学館は、何かを「随時、先生方へ説明するつもり」だそうだが、いったい何を説明するつもりなのだろう。
少々騒がれたが、「故人の遺志」があるから、記者会見やプレスリリースは無しにしました。そもそも法律的には社会への説明責任はありませんし。とはいえ、金づるは確保せねばならない。そこで、きょうは世間をお騒がせしたお詫び方々、先生にご説明にうかがいました、と説明するのだろうか。
▼二、「SNSでの発信が適切ではなかった」
とても大事な説明だ。記事の該当箇所を、一文ごとに数字を振った。
〈1)小学館にとってイレギュラーだったのはSNS上での〝応酬〟だった。
2)「芦原先生に大きな精神的な負担を強いてしまいました。
3)これはXを削除されたことからも明白と思います。
4)SNSの運用、使用に関して、日頃より社内での注意喚起などしてきましたが、今回の事態にあたり、SNSでの発信が適切ではなかったという指摘は否めません。
5)会社として、痛恨の極みです」〉
▼第1文。東スポの記者が、小学館の関係者に取材して得た情報を要約した、記者自身の言葉だ。
SNSでの「応酬」。これはおそらく、脚本家である相沢友子氏の投稿と、それに対する芦原氏の投稿、そしてこの二つの投稿をめぐる「炎上」を指すのだろう。
ただし、具体的に記されていないので、この「応酬」に、相沢氏の投稿が含まれていない可能性もある。つまり小学館は、芦原氏の長文投稿のみを問題視している可能性がある。相沢氏のインスタ投稿と芦原氏のブログ投稿とは、切っても切り離せないが。
▼ともあれ、SNSで応酬が起こることを、小学館は想定していなかったとする。すると、裏を返せば、ドラマ完結までの経緯は、想定内のことだった、ということだ。つまり、ドラマ完結までは小学館のコントロール下にあり、問題はなかった、と小学館は認識している。
▼第2文。SNSでの応酬によって、芦原氏に精神的負担を強(し)いてしまった、とあるが、言葉を補(おぎな)うと、個人に負担を強いてしまったのは、法人である小学館だ、という認識だろう。法人として、個人に大きな精神的負担を強いたことが〈痛恨の極み〉(第5文)だ、と。もちろん、これは道義的責任であり、法的責任の話ではない。
また、具体的に、何が、芦原氏の精神的負担になったと小学館が認識しているのか、この説明ではわからない。
▼第3文。「Xを削除」とは、芦原氏が、ブログで投稿した長文と同じものを、このためだけに新しく開設したX(旧Twitter)のアカウントにも投稿したが、それを削除した、ということだ。
芦原氏はブログも削除しているから、「ブログとXを削除」が正確な表現だ。
芦原氏は、ブログそのものは丸ごと削除したが、開設したばかりのXのアカウント自体は削除しなかった。今も残っている。Xに最期に投稿した短文も、残っている。それは、2024年1月28日13時11分。
〈攻撃したかったわけじゃなくて。
ごめんなさい。〉
この投稿については、後述する。
▼さて、第4文。〈SNSの運用、使用〉とあるが、運用と使用と、どういう意味で使っているのかはわからない。
SNSについては社内で注意喚起してきたが、と言った直後に、〈SNSでの発信が適切ではなかった〉と認めているが、誰の発信のことか。複数を指すのか。これも不明だが、間違いなく含まれるのは、芦原妃名子氏が自分の名前で発信した長文投稿である。
つまり小学館は、芦原氏の長文投稿が「適切ではなかった」と認識しており、しかも、それを法人の問題として捉えている。
ここが重要だと筆者は考える。
▼とはいえ、ここも、具体的に何が適切ではなかったのかは、わからない。
直前に社内での注意喚起に言及しているので、「小学館の編集者が芦原氏に長文投稿させたこと」が適切ではなかった、と認識しているのだろう、と思う。
しかし、芦原氏と小学館とが密な関係を築いていたのは、ドラマ完結までの話であり、SNSでの応酬が始まってからのことではない。
ここで、芦原氏の長文投稿の内容と、小学館の社内向け説明とが、ズレている可能性がある。はたして何が適切でなかったのか。相沢氏のインスタ投稿とその反響を受けて、
「小学館が、芦原氏の名前で投稿させた」ことが適切でなかったのか。つまり「本来は個人である芦原氏の名前でなく、法人である小学館の名前で投稿すべきだった」と考えているのか。
それとも、「そもそも長文投稿したこと自体」が適切ではなかったのか。もしくは「法人である小学館が、個人である芦原氏の投稿に協力した」のが適切ではなかったのか。
「とにかくドラマは終わったんだんだから、脚本家の雑音なんて放っておけばよかったんだ」「原作者という個人のお気持ちなんて、担当編集者が説得して、抑え込んでおけば、こんな厄介なことにならなかったんだ」「編集の現場が原作者ごときに引きずられやがって」と思っているのか。
ここらへんが、わからない。
小学館は、「SNSでの発信なんて、やらなきゃよかったんだ」とは思っているだろうが、「あんな長文、原作者に勝手に投稿させておけばよかったんだ」とは思っていない。そう思っているなら「痛恨の極み」という道義的責任への言及は出てこない。
▼SNSの運用、使用。SNSでの発信。筆者はこのくだりを読んで「小学館は、それなりに協議したうえで、SNSとどうつきあえばいいのか、戸惑(とまど)っているのかもしれない」と感じた。「長年の構造」では対処できない事態に対する焦り、でもある。
芦原氏のSNSでの発信について、個別の「あの内容」が不適切だったと判断したのか、「SNSでの発信自体」が不適切だったと判断したのかも、わからない。
裁判のリスクを終始恐れ、大勢の社員や顧問弁護士たちに様々な対策を考えさせている、日本を代表する老舗出版社が、想定できなかった事態。それは、SNSが人間を殺す、という事態だ。
もしも小学館ほどの大きな法人が想定できず、今も焦り、戸惑っているのだとすれば、たった一人の芦原妃名子氏は、どれほどの混乱と苦しみの中に身を置いていたのだろうか。
▼芦原氏は、あの長い謝罪文を自分のブログに投稿した。しかし、ブログに投稿したのは、じつに10年ぶりだったという。
筆者はこの「10年ぶり」が気になる。
芦原氏は、なんとしても脚本問題の経緯と、視聴者への謝罪を発信しなくてはならない、という猛烈な意思を持って、10年ぶりのブログ更新と同時に、旧Twitterのアカウントを、急に、おそらくは生まれて初めて、開設した。
▼ここから先は、筆者が想像したストーリーである。
芦原氏は10年ぶりの投稿をした後、私の思いは無事に届いただろうか、届くだろうか、とやきもきしていた。(※そもそも、芦原氏はどうやって相沢氏のインスタ投稿を知ったのか。小学館の編集者からの連絡か。別の人からか。自分で調べたのか。)
もし、「私、SNS漬けの毎日を送ってます」と自己認識している人がいたら、想像してほしい。今から10年前のインターネット環境のことを。そして、この10年間の激変を。
芦原氏はインターネットに初めて触れるわけではなかった。10年前にブログを更新していた感覚は覚えていた。その、「10年前の感覚のまま」で、2024年のSNSーーすっかり感情ポルノの坩堝(るつぼ)と化し、その感情ポルノを煽(あお)る手練手管(てれんてくだ)が進化した、金儲けの道具ーーに、いきなり触れた。
芦原氏は恐怖を感じた。そして後悔と、さらなる自責の念を感じた。攻撃したかったわけじゃなくて。ごめんなさい。(※芦原氏は、どうやって自らの投稿によって生じた相沢氏や日本テレビへの攻撃を知ったのか。小学館の編集者からの連絡か。他の人からか。自分で調べたのか。)
▼能登半島地震の際に旧Twitterを使った多くの人が実感したように、2023年から旧Twitterは、インプレッションによって金儲けできるようになっている。感情ポルノの氾濫はますます激しい。
▼芦原氏は、SNSの中に誠心誠意の説明と謝罪を投じた。投じた先は、10年前の感覚では想像もつかない感情ポルノの坩堝だった。生まれて初めて、極めて攻撃的な感情ポルノの嵐に、これまでの50年の人生で経験したことのない極度の緊張感を維持したまま、わが身を晒(さら)してしまった。視聴者への自責の念を抱え、雑誌連載の締め切りに追われながら、我が最愛の子である作品を抱きしめて。
▼芦原氏の気持ちを想像するに、筆者は『鬼滅の刃』を思い出した。お隣の人に「人」だと思って声をかけたらじつは「鬼」だった、という世界で、戦い続ける物語である。しかも、鬼の首を斬り落とさなければ、話が先にすすまない。
あの過酷で凄惨(せいさん)な世界は、絵空事ではない。たとえばSNSの中で、眼の前で起きている現実の寓話(ぐうわ)である。
▼芦原氏の死によって、いちばん得をした人は誰だろう。高笑いをしている人は誰だろう。それは芦原氏の死を報道したニュース記事や様々なコメントに便乗して、インプレッションを叩き出して、金儲けしている人々である。
▼芦原氏の謝罪文投稿を、不用意だった、という一言で要約することは、筆者には出来ない。
▼攻撃したかったわけじゃなくて。ごめんなさい。
この芦原氏の最後の投稿に、今回の問題の本質が含まれている。
何かを攻撃したくてたまらない人々がいる。
「これこそが自分の意見だ」と思い込んで投稿した内容が、他人の意見の猿真似に過ぎないことに気づきもせず、「あー気持ちよかった!」と脳内で叫んだ瞬間、次の感情ポルノを探し始める人々がいる。
「攻撃」が「消費」であることに気づかない気の毒な人々がいる。自分が何を消費したのかすら気づかないまま。
「攻撃」が「消費」であることに気づいて蠢(うごめ)く人々がいる。
猿真似たちが脊髄反射のように食らいつくネタ探しのためだけに、いそいそとSNSを徘徊(はいかい)している人々がいる。
攻撃したかったわけじゃなくて。芦原氏の最後の投稿は、こうした「自分以外の掌(てのひら)の上で踊らされて、たった一度きりの人生の時間を無駄遣いする」風潮を峻拒(しゅんきょ)する宣言だった。
攻撃したかったわけじゃなくて。それは「あなたたちが手を染めているものは、人の所業ではなく、鬼の所業である。立ち止まれ。人間に戻れ。正気に返れ」と、精一杯の愛で鳴らした警鐘だった。
芦原氏は、巨大な法人でも対処不能な感情ポルノの激流に立ち向かった。原作者以外の誰にも出来ない戦いを、勇敢に戦った。人の顔をした鬼たちが跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する世界で、芦原氏は人間として生き抜いたのだ。
彼女がマンガ家として命がけで切り開いた道は、氏の最後の投稿をも金儲けの道具にする資本主義の構造などによっては、微塵も汚されない。
人それぞれの読み方があるが、筆者は、彼女の最後の投稿をこのように読んだ。
▼現在の旧Twitterでは、小学館の社内説明会に対して、小学館はこれで打ち止めにするつもりか、と怒りのコメントが噴出しているのだが、筆者には、小学館は追い込まれている、とも読める、と感じられた。
小学館は、故人の遺志、などという、自分の金儲けとは何の関係もない言葉を、持ち出さざるを得なくなった、とも考えられるからだ。なぜこうなったかというと、
1)まだ個人が忘れてしまう前に、2)多くのマンガ家、作家たちがSNSでコメントし、多大な反応を起こした、という二つの条件が重なったからだ。
ただし、2)は、単純明快な動きだが、連帯を作り出すような目的は見当たらない、1)については、忘れ去られるのは時間の問題だから、このままだと、今月中には事態は収まるだろう。
▼SNSも、ネットニュースも、テレビも、雑誌も、すべて法人のものである。法人の不利になることは削除する。とくにテレビ各局は、今回の「セクシー田中さん」ドラマ化をめぐって起こった問題とまったく同じ構造的問題を抱えているのだから、粘り強く報道する動機がない。
▼もし、これから小学館と日本テレビが、経緯や事情を説明するようになるとすれば、たとえば、マンガ業界の複数の大物が、立て続けに、何らかのアクションを起こす場合だろう。
その可能性は、ゼロではないが、とても低い。
▼そもそも、ニッポンのマンガ業界やドラマ業界の人々の多くが、契約で守る、守られる、という世界から、はみ出ている以上、残念ながら、その業界の大物たちに、リーガルマインドの発揮を期待することはできない。
では、どこに可能性があるかというと、甚(はなは)だ心許無(こころもとな)いのだが、個人のセンスである。
「ニッポンのマンガ」という、この広い地球上で唯一無二の、老若男女に夢と勇気と希望を与え続けているーーそれは、政治にも、経済にも、まったくでき得ないーー奇跡のような文化が、当のニッポン社会で、どのような扱いを受けているのか、その現実に、自分はどう応対するかのセンス。
▼そのセンスは、再び残念ながら、彼らが得意とする創作の領分とは関係ない。
まず、芦原氏の尊厳が踏みにじられたと判断するかどうか。
次に、その現実は、自らの尊厳に関わると判断するかどうか。
このセンスは、その人の創作の出来、不出来とは関係ない。
▼現状では、芦原氏の死は数年後、とても突出した、個別の案件、として位置づけられる。当該業界のリーガルマインドにも、原作者やクリエイターの扱いにも、特段の変化はない。
▼ここまでが、2月7日に書いた分。
長くなるので、ここで区切る。BからFは次号以降。
(2024年2月10日)