評伝『リンカーン』を読む
■プレリュード
▼ジョシュア・ウルフ・シェンク氏の『リンカーン うつ病を糧に偉大さを鍛え上げた大統領』(明石書店、越智道雄訳、2013年、原著は2005年)は、うつ病だった事実をもとに、リンカーンの生涯における成長をたどった力作評伝だ。
▼その「プレリュード」は、筆者がこれまで読んだ伝記の類の冒頭のなかで、最も感動的なものだった。そして、「うつ病」という本書のテーマの真ん中を射抜いた、素晴らしい序章だった。
以前、本書の序章が素晴らしい、いずれ紹介したい、ということをメモしたが、今日がその日になった。
▼もともと、うつ病について学ばなければならない状況になり、その一環として読もう、という意図で手に取った本だった。だから当然、うつ病についてのさまざまな知見を期待して読んだわけだが、そして、十分にその目的は達せられたわけだが、まさか、冒頭がこんな話から始まるなんて、想像もしていなかった。適宜改行。
〈死ぬ1年前、トルストイは、『ニューヨーク・ワールド』の記者にこんな話をした。
「かつてカフカスを旅していたとき」と、彼は言った。「たまたまチェルケス人の首長の客になった。チェルケス人は、山岳地帯で文化果つる暮らし、世界や歴史の理解も断片的で子供なみでね。文明はこれぽっちも首長や部族の元に届いたことがない。彼らが生まれた谷間の彼方の暮らしは、さっぱり分からなかった」。
トルストイは、自分の小説、部族の外で営まれる工業、発明、学校などについて語った。しかし、白い顎鬚(あごひげ)を蓄えた丈高い首長の目がやっと興味で光り出したのは、客が戦士、将軍、政治家に話題を移したときだった。
「待ちたまえ」と首長が遮(さえぎ)った。「隣近所や息子らにも聞かせたい」。
「主人はすぐ戻ってきた」と、トルストイ。「騎馬で鍛え抜いた荒々しい形相(ぎょうそう)の連中を20名あまりぞろぞろ引き連れてね。(中略)こういう野生児たちが私をぐるりと取り巻いて床に座り、好奇心丸出しでこちらを見つめていた。
そこでまずはロシア皇帝陛下たち、彼らの勝ち戦から始めて、お次は史上名高い将軍たちに話を移した。彼らは感じ入った風情(ふぜい)で聞き入っている。ナポレオンの話はいたくお気に召して、根掘り葉掘り聞かれて、彼の手の形、背丈、ついには彼の小銃や拳銃を造った人物、彼の乗馬の毛色まで話させられる始末。
この聞き手たちのお気に召す話をして彼らにわが意を得たりという気にさせるのは容易ではなかったけれども、一生懸命相(あい)つとめたよ」。
トルストイが語り終えると、首長が手を上げて言った。「それでも客人、あなたはこの世でいちばん偉大な将軍、いちばん偉大な支配者のことは、これぽっちも話してくれなかったではないか」。
彼は切々たる口調で続けた。
「われわれは彼のことを少しでも知りたい。彼は英雄だった。話す声は雷、笑顔は日の出のように輝き、動きは岩のように強固、同時にバラの香りのように甘美。
彼の母親に天使たちが現れ、そなたがこれから身ごもる息子は、夜空の星々が見た中でもいちばん偉い人物になると予言した。あまりに偉さゆえに、最大の敵が犯した罪すら許し、暗殺しようとした手合いとすら握手できた。
彼の名はリンカーン、彼が暮らしたのはアメリカという国で、あまりに遠いから若者がその国に向かっても、たどり着くころには老人になっている。この男のことを話してくれたまえ」。
「どうか話してください」と、列座の一人が叫んだ。「お礼に部族で最高の馬を差し上げます」。
「私は彼らを見つめた」と、トルストイが言った。
「どの顔も輝き、目が燃えるように光っている。(中略)私はリンカーンと彼の智慧の深さ、彼の家庭生活、青春時代を語り聞かせた。盛んに質問が飛んできたが、10のうち1つも答えられなかった。
彼らは、リンカーンの習慣、人への影響力、彼の体力について知りたがった。ところが、リンカーンは乗馬姿がさまにならなかったと言うと、彼らは仰天した。質素な暮らしぶりだったと言ったときも仰天したんだ」。
リンカーンについて知っていたことを語り尽した後で、トルストイはリンカーンの写真を手に入れてあげようと告げた。
若者を1人連れて、手近な町で出かけた。写真を入手して、それを若者に渡した。
「何ともいえない光景だったね」と、トルストイは記者に言った。
「写真を渡したとき、若者は深刻な顔つきになって、両手がブルブル震えだしたんだ。数分は黙って写真を見つめていたが、まるでうやうやしく祈る風情で、両の目に涙があふれていたんだ。深く感銘を受けた様子なので、どうしてそんなにつらい気がするのかと聞いてみた」。
若者は逆にトルストイにこう聞き返した。「分からないんですか?」。そしてこう続けた。
「この写真では、この方の目には涙があふれ、唇は秘めた悲しみに耐えているのが」。〉(9-11頁)
■本書の目次
▼もう一度繰り返しておくと、この冒頭は、筆者がこれまで読んだ伝記の冒頭のなかで、最も感動的なものだった。そして、「うつ病」という本書のテーマの真ん中を射抜いた、素晴らしい序章だった。
▼とくに、一読しておわかりのとおり、トルストイと、部族の若者との対比が素晴らしい。本書によって、リンカーンがうつ病とつきあいながら仕事を続けていった様子が、そしてどのように苦しみ、成長していったのかが、初めて本格的に明らかになったが、「プレリュード」に出てくる部族の若者は、そんな事実を知らなかっただろう。
人間の直観は、ときに博識を凌駕(りょうが)する。
▼本書の目次は以下のとおり。
第1部
第1章 世間はあいつはクレイジーだと言った
第2章 ものすさまじき天与の才能
第3章 今生きている人間の中で、私ほど惨めな人間はいない
第2部
第4章 セルフ=メイド・マン
第5章 欠陥? いや不運だ
第6章 理性の統治
第7章 わが気塞ぎとうつのはけ口
第3部
第8章 その正確な形と色
第9章 われらが潜り抜ける炎の裁き
第10章 われらにも智慧は浮かぶ
▼じつによく練られた目次だと思う。
■実践的なアドバイス
▼著者のシェンク氏は便宜上、リンカーンの生涯を「恐れ」「関与」「超越」の3つのステージに分ける。そして、おそろしいうつ病の冬を経て、「自分は生きられるかどうか」という問いから、「自分は今後どう生きるか」という問いに、人生の主旋律が変容していく様を、緻密に描写した。
▼本編にたくさんの知恵が詰まっているが、エピローグから実践的な箇所を紹介しておこう。【】は文中傍点。
〈すさまじいうつ病の冬を通り抜けた後、リンカーンが会得したのは、普段の仕事を始める、いや単にそれの下準備でもOK、とにかくあっさり業務に携わる単純明瞭な【何か】に手をつけることだった。(中略)
人生の小さな戦いの中では、歯を磨くとか、散歩に出るとか、これらの些事(さじ)が勝利への準備運動となるのである。〉(332頁)
(2019年2月15日)