『許される者』と『許されざる者』の違い とんでもないミスをしてしまったら
おはようございます。
ニュースをみていて、以前より実名報道が多くなったような気がします。
もちろん、悪いことをしてしまったのであれば、罰を受け入れる必要があり、評価を受け止めなければなりません。
しかし、実名報道がその人に与えるインパクトは計り知れないものがあるのも確かだと思います。
ここで実名報道の是非についてはコメントしませんが、『暴露系』なるジャンルが受け入れられるほど、世の中は厳格化に進んでいることを理解して生活しなければならないと感じました。
このような大きな話ではなくても、僕たちの生きる会社や学校といった小さな社会においても、何か失敗したり、悪いことをしてしまった場合は、その場で叱られること以外に、しばらく周りからの冷ややかな目や、排除行為を受けることになります。
このような状況に陥った場合、『晒すことは良くない』とか『噂話しは良くない』とか、そういった話は、あまり意味がなく、社会やコミュニティーに対してどうやって謝罪をし、受け入れられるか、を考えなければならないと思いました。
個人的価値観と道徳は別
過去の経験を振り返り、今後同じようなことが起きた時に、自分自身どのように立ち振る舞うか、ということを考えました。
まず、社会というものを『個性ある個人の集合体』と捉えず、『個人とは別の、社会という別人格が存在する』という理解を持つところから始めます。
どういうことかというと、何が正しいとか、これは個人の自由という発想は、対個人では通用するが、社会という物差しからは共感されないということです。
例えば、罪を犯した人は、世の中が思う罪人の暮らしをしなければ、社会から反感を買う。みたいなことです。
よって、何か大きな失敗をしたり、ルール違反などの過ちを犯してしまったのであれば、社会が求める以上の不遇を受け入れ、社会が求める以上のまじめさで仕事に取り組むことが、『許される人』となるか『許されざる者』となるかの分かれ目になると思いました。
ポイントは、『社会が求める以上』です。
『社会が求める通り』は当たり前すぎて評価されません。
『そこまでやる必要はない』という印象が歯車を逆回転させるのです。
こういうことを書くと、テクニック論のようにとらえられるかもしれませんが、そうではなく、誠意を見せるなら、これくらいやらないと伝わらない、と思いました。
僕たちは社会やコミュニティーで生きている以上、『許される』ことのインパクトはとても大きいと思っています。
まとめ
小さなミスや悪ふざけは、謝罪して、また前に進めばよい。
しかし取り返しのつかないミスをした場合は、取り繕うようなことはせず、腹を決めてしっかり謝罪することが大事
という結論になりました。