いじめ後遺症者の私が社会から離れてわかること
雇い止めによる失業してから5年を経過しており、逃げられない両親から受ける度に、
過去に受けた #いじめ の出来事がフラッシュバックしてしまい、何故か加害者に置かれた環境を思い出したことから、それによる苦痛からそれに至る攻撃パターンが見えてきた。
もし私が外で何もなければ確実に
加害者になっていた。
当時の私は理不尽な被害を受けたら非難することしか考えておらず、
加害者が置かれた環境の #生きづらさ が見えず、彼らの知らない長所を理解する余裕がなかった。
被害者の私もそうだが、加害者も子供なので妥協することや論理的な説明する能力がないので、自分を助ける為に暴行や侮辱、 #引きこもり 等の #受動的攻撃 でしか伝えることしか能が無いと言われているが、
大人になって落ち着く様になってから、家族を含めた他人のやり取りの流れを辿っているうちに、大半は自分が罪を犯していないということが確信できた。
兎角いう私も、新しい環境に出て過去に受けた同様なことをされたと感じると、
咄嗟に被害当時のことを思い出してしまい、別の人といえども、攻撃してしまい、逆に恐れられた。
いわば、
「いじめ後遺症」といもいえる、「反動」であると実父に指摘され、出会う前に #虐待 や過去のいじめで辛い思いをしたというメッセージを送ったものだ。
きちんとした話をすると理解してもらえないのは当然であり、
インターネットがなければ太刀打ち出来なかった頃だったので、攻撃パターンや自分に置かれた問題を国語の応用問題的な分析を怠っていなければ不利だったといえる。
「被害妄想」であると非難されるのはおかしくなく、異常な思考をしている人に迎合しなければならない社会に適合できなかった私が不利であると言われがちだが、
当時の感覚が「異常」だったことから、無理して合わせたら心身共に崩した私だけでなく、加害者に当たる人も絶対権力者である親等に逆らえない「可哀想な人」だったとして捉える。
結論からいえるのは、
固定された家庭からの解放と共に、受けた被害のフラッシュバックは勿論、本当の「存在」の確認をする為に、悲しい過去を隠し、形のない表現によって行われていると考えられる。
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只今失業中で高齢家族に合わせた生活を強いられており、取材する時間と費用がない状態で2時間という短時間で執筆しなければならない厳しい状況です。
主たるジャンルはいじめ、ハラスメント等の労働・社会問題を過去の回想を基にして執筆しております。