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得手に帆上げて、仲間とともに

相田みつをさんに、『みんなほんもの』という題の詩がある。

『みんなほんもの』

トマトがねえ
トマトのままでいれば
ほんものなんだよ
トマトをメロンに みせようとするから
にせものに なるんだよ
みんなそれぞれに
ほんものなのに
骨を折って にせものに なりたがる

引用:相田みつをさん『みんなほんもの』

私は、松下幸之助さんや本田宗一郎さんや稲盛和夫さんのような哲人経営者に憧れた。濁世(じょくせ)の世に生きて、汚れ切って生きていく政治家(私はそう思っている)にはなれはしない。なりたくもない。
それに反して、経営者の中でも、揺るがない人間哲学を極めて、人生を全うされた、この3人の経営者は私には憧れの的だった。

しかし、妻は、事あるごとに、相田みつをさんの詩を私に話す。
「お父さんはトマトで、稲盛さんはメロン。トマトはどうあがいたって、どんなに一所懸命に生きたって、メロンには成れっこない。そろそろ自分自身の器を悟って、お父さんがあまり好きではないトマトを極めることですね」と。

「分かっちゃいるけどやめられない」という植木等の『スーダラ節』という歌があった。

チョイと一杯の つもりで飲んで
いつの間にやら ハシゴ酒
気がつきゃ ホームのベンチでゴロ寝
これじゃ身体に いいわきゃないよ
分かっちゃいるけど やめられねぇ
ア ホレ スイスイ スーダララッタ
スラスラ スイスイスイ
スイスイ スーダララッタ
スラスラ スイスイスイ
スイスイ スーダララッタ
スラスラ スイスイスイ
スイスイ スーダララッタ
スラスラ スイスイスイ

スーダラ節

そうなんだなぁ。私もスーダラ節で生きてきたんだなぁ。
いつも一杯のつもりで飲んで、いつの間にやらハシゴ酒をしているんだ。
そうして、七十路を過ぎてしまった。
気がついたらホームのベンチでゴロ寝のありさま。
せめてこれからは、暖かい布団で眠りたいものだ。

そう思って、ソクラテスの”汝自身を知れ”を何度も何度も思って、繰り返し、繰り返してきた。それでも性懲りなく同じことを繰り返している。
人生100年、あわよくば120年と思っても、それでは同じことを繰り返すだけ。ホームのベンチでゴロ寝になってしまう。

第2の生、実りの白秋というなら、口だけではない『本物の素直』にならなければならない。
私の事務所のデスクの上には、松下幸之助さんが書かれた『素直』の額が飾ってある。

松下幸之助さんは『素直な心』について、次のように定義されている。

素直な心とは、寛容にして私心なき心、広く人の教えを受ける心、分を楽しむ心であります。また、静にして動、動にして静の働きのある心、真理に通ずる心であります。

引用:松下幸之助さん『素直な心』

まずは、素直に自分を見つめることだ。
私はバカではない。最高学府と言われる大学も何とか卒業できた。しかし、経営の才はない。
しかし、いや、だから、トマトであることを心から自覚することだ。自覚して、それを隠したりせず、人のアドバイスに素直に従うことだ。
だからと言って決して卑屈になることはない。私が誰にも負けることはないだろうと思っている、人と人を繋ぐ得手を一層磨くこと、磨き続けること。そして、不得手のところを、信頼ができるそれが得手の人に全幅の信頼を以てお任せすることだ。素直な心になって。

本田宗一郎さんは、著書「得手に帆上げて」で語っている。

“惚れて通えば千里も一里”という諺がある。

 それくらい時間を超越し、自分の好きなものに打ち込めるようになったら、こんな楽しい人生はないんじゃないかな。

 そうなるには、一人ひとりが、自分の得手不得手を包み隠さず、ハッキリ表明する。石は石でいいんですよ、ダイヤはダイヤでいいんです。

 そして、監督者は部下の得意なものを早くつかんで、伸ばしてやる、適材適所へ配置してやる。

 そうなりゃ、石もダイヤもみんなほんとうの宝になるよ。
 企業という船にさ
 宝である人間を乗せてさ
 舵(かじ)を取るもの
 櫨(ろ)を漕ぐもの
 順風満帆
 大海原を
 和気あいあいと
 一つ目的に向かう
 こんな愉快な航海はないと思うよ。

引用:本田宗一郎さん「惚れて通えば千里も一里」

まずは、心を清くすること。任せる人も心が清い人でなければならない。それがスタート台だ。
そして、それぞれの得手を出し合って、丸い球形をつくることだ。トマトはトマト、メロンはメロン。それぞれの役割を全うすれば、トマトは一層トマトらしくなり、メロンは一層メロンらしくなる。

そして、3人の哲人経営者の域にまで辿り着くことができるか、それは迂遠な道のりだが、その足元には確実に辿り着くことができるだろう。

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)

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