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恕の心と相続対策
論語に言う。
子貢問うて曰わく、
一言にして以て終身これを行うべき者ありや。
子曰わく、其恕か。
己の欲せざる所、人に施すこと勿れ。
(現代語訳)
子貢が孔子に問うた。
「人の生き方で大切なことは何でしょう?」
孔子は答えた。「それは恕です。自分が嫌だと思うことは人には決して
してはいけません」
昨日、プライベートなことで、いつもお世話になっている西武信用金庫さんを訪問し、土地の有効利用と相続対策についてご相談に乗っていただいた。
不動産は相手のあることだったし、相続については、家族と言っても妻・子・孫は私とは別人格であり、私ではない。
いずれも、相手のことを考えて、どうしたら相手が喜んでくれるか、相手はどうしたいと思っているのかと思いを致すことで、思ってもみない知恵が出てくるものだ。また、私が信頼できる人脈をつくってきたことで、その人たちは私のために知恵を出してくださる。私がつくってきた温かい人脈が有機的につながって、Win Win Win Win Winという、よい連鎖が無限につながっていく。
いずれも人間関係を大切にし、相手の立場に立って考えることで、相手は喜んでくださる。そして、それが、自ずと私のためにもなっていく。
今回は、"自分のため"と思ってご相談に行ったのではない。"人のため"と言うところからスタートしたのだ。そして、それがいい展開になりそうなのだ。
それで、論語の「恕の心」に思いを致したというわけだ。
「恕」とは、"思い遣り"という意味だ。つまり、孔子は人として最も大切なことは、この「思い遣り」だと言っている。
私は、この「恕」の実践には、その根底に哲学が不可欠だと思っている。
その哲学とは、論語で説かれている「仁・義・礼・智・信」、つまり「五常の心」のことだ。
すなわち、「恕」とは、
「相手の心を察しているか(仁)」
「正義に則っているか(義)」
「秩序を乱さないか(礼)」
「正しい知識に基づいているか(知)」
「信頼関係が成り立っているか(信)」
これらの5つを自らの心に問い、その上での「恕」と言うことなのではないかと思う。「恕の心」と「五常の心」は一対であり、スムーズな人間関係を構築するにおいて、決して忘れてはならない心であると言っても過言ではないと思うのだ。
人間、72年以上生きていると、たとえ私が甘ちゃんでも、七転八倒、紆余曲折しながら一生懸命生きていると、世の中のことが少しずつ分かってくる、少しずつではあるが利口になってくるものだ。
若い時は、論語を読んでも頭でっかちで、血肉になっていないものだから、その実践にまでは至らず、人間関係がギクシャクすることがしょっちゅうだった。
それが歳を重ねると、そのギクシャクから多くを学ぶようになって、ようやく論語の言わんとしていることが血肉になってくる。
今の私には、〜能登の復興・地方創生の応援〜という大きな柱があって、それにいろいろな物事や人たちが有機的に結びついていっていることを実感している。
私には、今まではその柱がなかったものだから、"人のため、世のため"という思いが空回りしていたのだ。だから、虻蜂取らずで人生を送ってきてしまったのだと反省している。
72歳であれば、一般的には"遅かりし由良之助"なのだろうが、私の人生はまだまだこれからだ。やっと、人生実りの白秋の季節の入り口に立ったのだと思うことにしている。考え方次第で人生は様変わりする。
そして、能登の応援という揺るぎない柱を立てて、恕の心でボランティア&ビジネスに取り組んでいこうと思うのだ。
私はいつも、「自分のため→人のため→自分のため」と思って何事も考動しているが、今回は、スタートが「人のため」ということだった。
そして、「忘己利他は私にとってまだまだ迂遠な域だが、この積み重ねが忘己利他に繋がっていくんだな」と、そんなことを思った。
自分のためを突き詰めることもあり、人のために尽くすことからスタートもありなのだ。
とにかく、全ては「恕の心」を持つことが幸せを齎らす。
今回の相談は相続対策だったが、相続は争族になってしまうことが間々ある。稀には、兄弟姉妹が裁判沙汰になる。そこまで行かなくても、人間関係がギクシャクしてしまうことも少なくない。
その原因は、相手を思いやる「恕の心」が欠如しているせいなのだ。
相続の場合、相続人たちがどうしても今の自分のことばかり考える、先を見ていないから、相続は争族になる。被相続人も、生存中に心から"子どものため"と思う「恕の心」がないから、争いの種をつくったままにして旅立っていくことになる。
「恕の心」があれば、何も争続にはなることはないのではないか。
そんなことを思い、妙に納得した一日だった。
不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)