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人間哲学を極める

人間、切羽詰まると腹が座ってくる。当然、目先のことも気にかかるし、それをクリアしていかなければその先はないのだから、何とか正当なやり方で対処しようと思い、行動する。しかし、その先、それも1年や2年先ではなく、10年〜20年〜30年先まで、私が百寿になる先までを見据えて生きる。
それは当然、見据えるものはアバウトであり、理想郷であるが、それが絶対ブレないものであることが、私の人間をつくっていく。

[OUEN Japan]=[小林博重]の"3S-Spirits"(東大応援部の3S-Spiritsを拝借したものであるが)を絶対現実化させようと思うのだ。

【3S-Spirits】
1.Service⇨社会貢献
2.Sacrifice⇨活私奉公
3.Study⇨人生修養

私は鮭である。ほんまものの鮭になりたいと思う。
魚には、鮪・鰤・鱈・鯛・鯖・鯵・鰯等々の海水魚や、鯉・鮒・鱒・鮎・岩魚等々の淡水魚が数知れずいる。魚それぞれ、人それぞれ、それぞれの個性をそのまま発揮して、自由奔放に、愉しく、生きていくことが幸せであろう。

私はどんな人生を生きていきたいか。実際、生きていて、息をしていて分かっているようで何も分かっていなかった。それが私のみならず、ほとんどの人たちの現実ではあるまいか。
人生100年時代といっても、その100年のいつ何時、自らの理想の生き方を見つけることができるのだろう。
人は、ただ愉しく生きていくことで幸せだと思って生きている。それはそれでいいのだろうが、それでは人間の深みがないように私には思える。生涯、燃える青春ではあり得ない。人生を燃焼してこそ、生きているという実感が持てる、生きているといえるのではないか。
そのためには、"揺るぎない哲学を持つ"ことだろう。経営には携わっていなくとも、経営哲学は人生哲学に通じるのだから、松下幸之助さん、本田宗一郎さん、稲盛和夫さんなどの哲人経営者の生きざまを知り、学ぶことで、自分なりの哲学を持って生きていくことだ。

“本質”をとらえる

哲学とは何かという問いにひと言で答えるなら、それはさまざまな物事の“本質”をとらえる営みだと言うことができる。

そんなこと本当にできるの? そう思う人もいるかもしれない。特に現代は、「相対主義」の時代。つまり、世界には絶対に正しいことなんてなく、人それぞれの見方があるだけだという考えが、広く行き渡っている時代だ。
たしかにもちろん、この世に絶対に正しいことなんてない。でもそれは、だからと言って、僕たちが何につけても“共通了解”にたどり着けないことを意味するわけじゃない。
僕たちは、お互いに話をつづけていくうちに、「なるほど~それってたしかに本質的だ」と納得し合えることがある。だから、「恋」っていったい何なのか、「教育」って何なのか、といったテーマについても、対話を通して、その“本質”を深く了解し合える可能性がある。

それは「絶対の真理」とは全然ちがう。あくまでも、できるだけだれもが納得できる本質的な考え方。そうした物事の“本質”を洞察することこそが、哲学の最大の意義なのだ。


私には応援哲学がある。その哲学は東大応援部の"3S-Spirits"だ。
大学時代に学び、勿論、頭では充分過ぎるくらい分かっているのだが、それを社会人になって極めようと思って生きてきたのだがなかなか血肉になっていかない。
若気の至りで銀行を退職することになったり、そのあとも一匹狼、パンダ、ドラえもんで冬の日本海の荒波に揉まれて、一丁前になったようでなっていない。そんな自分に忸怩たる思いを持って生きてきた。
そんな思いを持って、2年前古稀を迎えた時、生前葬&出陣式を行なった。一旦、人生をリセットし、新たな第二生を生きていこうと思った。それでも七転八倒、行く先は何処か、分かっているようで分かってはいない。100歳まで現役で頑張ろう、あわよくば120歳まで生きようと思う。
それでは、生きることが手段であるはずなのに、生きること自体が目的になってしまっている。

私は何を成そうと思っているのか、何を成すのか、どんな実績を積み上げるのか。 

前のめりに倒れて生涯を閉じることは私の理想の生き方ではあるが、やはり、ブレない哲学を持って、何か事を成し遂げたいと思うのだ。

川(能登)から海(世間)に出て、何十年も海を回遊している。いろいろな経験を積んで、人のありがたさを知った。人の醜さも多少なりとも知ることができた。それでも人は性善であると思う。
人は性善であっても、人は性が弱いから悪事に染まってしまう。本質を見失ってしまう。手段を目的と勘違いしてしまう。利己主義でいいが、その利己主義を極めて利他主義に辿り着くことをしない。自分に甘くなって、遊びを愉しむことで満足する。仕事を遊びにしようとしない。

生きるとはなかなか難儀なことだ。しかし、考え方次第で愉しくなる。仕事が遊びになる。両極端を併せ持って、その境目がなくなって渾然一体になる。全てが遊び、全てが仕事になる。そのための人間哲学だ。

私は鮭になる。ふるさと能登に帰って、東京と能登を行ったり来たりして、東京と能登2拠点居住をして、仲間たちの協力をいただいて、皆んなで幸せになることを目指そうと思う。

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)

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