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お金を稼ぐということ

私の周りにはたくさんの人たちが集まってきてくださる。それも心清き人たちが多い。
そして、彼ら彼女らは、私のことを心地よい言葉でほめてくれる。
「団長は素晴らしいお人柄だ」「団長の笑顔が人を和ませる」「団長は人格者だ」「団長は人望があるからたくさんの心根の美しい人たちが集まってくる」等々。
決して、私を煽てているわけではない。本当にそのように思って言ってくれているのだと思う。
私は、それで満足して、自らをもっと高めようとしていないのではないか。

私のことをよく分かってくださっている人の一番は妻だろうが、ここのところ、一人ならずの心が通じ合う人たちからも言われる。

「小林さんは、"人のため世のため"と思って仕事をしていることで、それで満足して、お金に無頓着になっている。それで奥さんに迷惑をかけている。
そんなことをしていては、ボランティアは長続きしない。勿論、ボランティアは一過性のものだ。10年〜20年と長く続けていくことができないのがボランティアだ。そのボランティアを10年〜20年と長く続けていこうと思っている。いや、ボランティアの意味を分からず、深く考えずに、いい気になって、ボランティアもどきのことをやっている」と。

陽明学者の安岡正篤さんは仰っている。
「我々は何のために仕事をするのか、何のために会社はあるのかといえば、第一に自己の主体性・自立性を練磨すること、自由を確立することであり、進んでは、それによって、発達する自己を通じて、何らか世のため人のために尽くさんがためである」
「人間はみな職業を持っております。社会学者は職業に二つの意味を説いている。その一つは、それによって生活を営む手段とすることである。しかしこれは誰しも免れない条件ではあるけれども、それだけでは尊い意味はない。職業の大切なことは、それが生活の手段であるということのほかに、その職業である仕事を通じて、何らかの意味において、世のため、人のためになるということである。これあるによって職業は神聖であるということができる。これあるによって進歩がある」

安岡翁のお言葉はまさにその通りだ。お金のことは全面に出ていないが、安岡翁は「お金を稼がなくていい」と仰ってはいない。
しかし、私はあまり「お金を稼ぐ」ことを考えてこなかったように思う。「お金を稼ぐ」ことに執着はなかったのだ。生きていくにおいて、それでは何もできはしない。それでは幸せになることはできはしない。

「お金を稼ぐ」ことについて考える。

私が私淑する稲盛和夫さんからも多くを学んでいるのに、全く今の私の血肉にはなっていない。

石門心学の石田梅岩は、「稼ぐことは、武士の俸禄と同じで尊いことだ」と、武士道に対する"商人道"を説いた。

「人が好いことは罪悪である」というのは、ある意味では正しい。


「天下の資材を使い、天下の人材を使って事業を営み、赤字を出すというのは、罪悪を犯しているようなものだ」
松下幸之助さんが仰っているこの言葉は、まさに私のことを仰っているのではないか。

そうなのだ。人のため世のために尽くせば、そのお礼にお金はこちらに回ってくるのに、回ってこないのは、それは私がまだまだ人のため世のために尽くしていないからだ。ただ、漠然と生きているからだ。創意工夫をすることなく、ボケっと生きているからだ。
長く人のため世のために尽くしたいと思うのであれば、ボランティアをビジネス化することだ。そうすれば、そのボランティアは長く続けることができる。

池上彰さんは仰っている。

「人が喜ぶことをすると自分も儲かる」

「人が喜ぶことをすると自分も儲かる」

お金を稼ぐには、いろいろな方法があります。会社に就職することも、起業することも、株式投資をすることも、お金を稼ぐ手段です。
いずれにせよ、覚えておいてほしいのは、「人が喜ぶことをすると、自分も儲かる」ということです。
たとえばパン屋さん。美味しいパンをつくれば、それだけたくさんのお客さんが買ってくれて、お店は繁盛するでしょう。朝からパンを買いに来る人のために、早起きしてパンをつくるのは大変かもしれません。でも、そうやって「人が喜ぶもの」をつくるために一生懸命になるほど、世の中が良くなっていくし、自分も儲かります。

私は、まだまだ人が喜ぶことをしていない。
サラリーマンではないから、自らが、お金を稼ぐ流れをつくっていかなければならない。もっと仕事を深掘りすることをしていかなければならない。

たとえ、その道を得手としているパートナーがいたとしても、ただ任せ切りにするのではなく、アバウトでもいいから、自分ごととして、「お金を稼ぐ」ことを考えなければならない。

「お金を稼ぐ」ことは、私にとって第二生の最大の課題だ。

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)


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