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令和の日本列島改造論〜地方創再生〜

日本の政治は劣化が極まりない。自民党の体たらくは如何ともし難いが、では野党がその代わりをできるかと言ったら、これも実に心許ない。

ネットに、「超党派で"田中角栄研究会"を開催した」という記事が出ていた。
「そうか、こんな時だからこそ、田中角栄が求められているんだ」と思う。

国民は田中角栄元首相を、親しみを込めてファーストネームで"角さん"と呼んだ(佐藤栄作元総理は長期政権だったが、あまり国民受けはしなかった。「私も栄ちゃんと呼ばれたい」言ったとか。人望はやはり人間性に依る)。義理人情に熱く、浪花節を愛した。加えて、コンピュータ付きブルドーザーの異名があるように、頭の回転は速く、頭脳は明晰、突破力は抜群の傑出した大政治家だった。

私が大学2年の時、田中角栄が自民党総裁に就任した。
吉田茂〜岸信介〜池田勇人〜佐藤栄作という官僚出身の首相が続いた時代だ。そんな時に、尋常小学校卒の田中角栄が、日本列島改造論を引っ提げて首相に名乗り出たのだ。当に昭和の今太閤の登場だった。

私は東大駒場寮(当時は旧制第一高校の跡地の駒場に4棟の自治寮があり、その1室が教養学部在籍の応援部員4名の共同の部屋だった。その部屋を応援部は駒場の部室として使用していた。4人1部屋でもプライバシーはないが、それが部室になって定期的に本郷から3〜4年生が来る。部室内は、ブラスバンド部の楽器や淡青旗(いわゆる応援団でいうところの団旗)の置場になっていた。先輩たちは、駒場での練習が終わると部室で夜遅くまで麻雀卓を囲むことも頻繁だった。そんな"公私混同極まれり"ではあったが、私は「それが応援部の魅力なんだ」と、その理不尽さにこよなく愛着を覚えていた。一種のマゾヒストだった)の部室で、同輩たちと放映されていた自民党総裁選挙を視聴した。
「これから日本は変わる」と、今太閤の田中角栄の登場に、日本の夜明けを強く実感したことを今でも鮮明に覚えている。

[田中角栄]
衆議院議員(16期)、郵政大臣(第12代)、大蔵大臣(第67・68・69代)、通商産業大臣(第31代)、自由民主党総裁(第6代)、内閣総理大臣(第64・65代)を歴任した。
自民党内最大派閥の田中派を率い、日本列島改造論を計画・実行し、他にも様々な政策を成し遂げたことでも有名であり、今太閤や影の総理など呼ばれ多大な影響力をもった政治家として知られる。
(Wikipediaより)

「田中角栄研究会」6回目を超党派50人で開催 立憲が設立、人気に

立憲民主党の国会議員有志が設立した「田中角栄研究会」が19日、新たに超党派による勉強会として国会内で開催され、自民党や日本維新の会の国会議員を含む約50人が参加した。世話人には自民の石破茂元幹事長も名を連ねたが、会合は欠席した。

田中氏は1972年、当時戦後最年少で首相に就任し、日中国交正常化などを成し遂げた。首相退任後、ロッキード事件で有罪判決(1審)を受けて以降も政界への影響力を持ち続けたことから、「闇将軍」とも呼ばれた。

田中氏の没後30年に当たる2023年に立憲の議員有志が設立した勉強会に対し、「参加したい」との声が他党の議員からも寄せられたため、6回目に当たる今回から超党派で開催することになった。

勉強会では、世話人を務める立憲の原口一博元総務相が「田中角栄氏とは一体何だったのか。先生に学び、今の政治を前に進めるために超党派で頑張っていく」とあいさつ。法政大の新川敏光教授(比較政治)が田中政治の特徴やその評価について講演し、出席者からは「田中氏が存命であれば、拉致問題などにどう対応したのか」といった質問が出た。

下記のYouTubeの【秘蔵】田中角栄元首相の"最後"の演説(1985年2月25日)は、羽田孜衆議院議員(元首相)の激励会でのものだ。
羽田議員は長野選出であり、田中元首相は、東京から長野を経由して、新潟に入り、富山〜金沢〜福井を経由して京都〜大阪までつながる北陸新幹線の話もしている。

田中角栄の"日本列島改造論"は、日本国内に新幹線網を張り巡らし、全国至るところにミニ東京をつくる。東京から日本を元気にする。そして、東京のコピーを全国に拡げる。そのような発想での論理展開だったと思う。
その当時はそれが日本の目指すところで斬新的な発想だった。

しかし、今の"少子高齢化・人口減少社会"では、その逆の発想が必要だろう。
すなわち、地方から日本を変えていくのだ。それぞれの個性を持った地方を創っていく。
田中角栄元首相が創ってくれた新幹線網をフル活用することにより、ミニ東京ではない、その地方にしかない地方地方色豊かな地方を創っていく。

田中角栄のような傑出した大政治家の登場を切に願うものだが、地方発信のまちづくりは"小粒でもピリッと辛い山椒のような人たちの集まり"で、"個性ある地方を創っていく"ことだ。

田中角栄は生まれた新潟を愛した。その郷土愛が、日本列島改造論を生んだ。"土着の発想"だ。
霞ヶ関の中央官僚では、その"土着の発想"は出てこないだろう。地方の人たちの話を聴く。そして、自分ごととして身体に染み込ませる。そして、東京を上手く活用することだ。

以上を念頭に置いて、能登の創再生に付き、陽明学で言うところの"知行合一"、私ができることは全てやっていこうと思う。
上から目線では、決して事は成し得ない。

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)

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