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お不動さまのご加護をいただいて、中能登町~能登半島の地方創生に尽くす

中能登町で定宿にしている鵜家家(鵜家分家)は鵜家総本家(鵜様道中の宿)に隣接している。その鵜家総本家の敷地の一角に小振りな不動明王のお堂がある。鵜家家から良川駅に行く時にも、このお堂の前を通る。
平安時代から続くと言われる”鵜様道中の宿”のことは道端さんからお聞きしていたのだが、敷地にこのお堂が鎮座されている謂れは何も聞いていなかった。

鵜家さんとのお話しのなかで、鵜家家が能登部の長楽寺の門徒であることをお聴きした。「小林家も長楽寺の門徒で、祖父母は特にお不動さまを信仰していた。鵜家家も長楽寺門徒で信仰の篤いお家だから、お堂に不動明王が鎮座されているんだんな」と、そんなことを思っていた。
昨日のOUEN blog「不動院重陽博愛居士」を道端さんがお読みになって、彼女から、「お不動さまが小林さんをお守りしてくださっています。お不動さまのお導きがあって、鵜家家が定宿になって、中能登町~能登半島の地方創生をされるんですね。小林さんの想いは必ず成就しますよ。頑張ってください」と励ましのLineをいただいた。
道端さんのお話しによると、私の小学校3年生の担任だった鵜家かをる先生も事あるごとにお不動さまに手を合わせていらっしゃったのだと。

私の祖父は明治37~38年の日露戦争に出征し、二百三高地で露軍と死闘を演じた。弾丸が鉄兜を貫いても、無事に生きて日本に生還した(だから今の私がいる)。これは、曾祖母が祖父の無事を祈って、お不動さまにお参りしてくれたおかげだったと、祖父はことあるごとに私に語っていた。
日中戦争の最中だった昭和10年代に、長楽寺(真言宗)の裏山(眉丈山)の中腹に不動明王が建立された。その中心的人物が祖父だった。祖父は、建立式には日露戦争のおりの上官であった林銑十郎閣下(陸軍大臣、戦時内閣の内閣総理大臣)を来賓にお呼びした。お不動さまは祖父にとって、守り本尊だったのだ。

長楽寺へようこそ!
鷹王山長楽寺は能登半島の中ほど、石川県鹿島郡中能登町能登部(のとべ)にある、高野山真言宗の寺院です。
仮本堂「らくあん」のほか、百段あまりの石段を上ると「奥の院」がございます。
北陸不動霊場の第1番札所であり、北陸観音霊場の第21番札所でもあります。

〜長楽寺のホームページから抜粋〜

奥の院に不動明王が鎮座ましましている。私が幼いころは奥の院はなく、不動明王は眉丈山(びじょうざん)の中腹で雨露に晒されていた。
私は、小学校時代に何度か、祖父に連れられてお不動さまにお参りし、参道の山道の枯れ葉を掃除したことをよく覚えている。祖父は頻繁にお不動さまの参道を掃き清めていた。きっと祖父は、不動さまの参道掃除を人生後半の仕事(ボランティア)と思っていたのだろう。
そのことは、当時の長楽寺の住職もよくご存じで、そのことで住職は祖父の戒名を「不動院積德永寿居士」とつけてくださった。

不動明王(ふどうみょうおう、梵: अचलनाथ acalanātha)は、仏教の信仰対象であり、密教特有の尊格である明王の一尊。大日如来の化身とも言われる。また、五大明王の中心となる明王でもある。
真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されている。大日如来、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王、金剛愛染明王らと共に祀られる。

〜ja.m.wikipedia.org〜より抜粋

私も祖父にあやかって、恐れ多くも”不動院”の院号をお願いしてつけていただいた。そして、祖父の想いを引き継いで、お不動さまにお守りいただいて、中能登~能登半島の復興と地方創生の応援に後半人生を懸けたいと思う。

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)


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