祖父が戦った旅順二〇三高地を訪ねる(9月7日)
中国旅行の5日目。今日は日露戦争で祖父がロシアと戦った旅順の二〇三高地を訪ねる。
幼少の頃、ことあるごとに祖父から旅順攻防戦を聞かされた。祖父母に育てられた私にとって、祖父の日露戦争・旅順二〇三高地の話は、精神のバックボーンになっている。
祖父は、私が17歳(高校3年生)の9月12日、帰らぬ人になった。まもなく祖父の54回目の命日だ。今日は、二〇三高地で54年振りに祖父に会うことができると、気持ちの昂ぶりを抑えることができない。
9時に黄さんがホテルに到着する。10時には旅順を案内いただくガイドの何さんがホテルにいらっしゃる。それまで1時間弱あるので、黄さんはホテル近くの労働公園を散策しようと私を公園に連れていってくれる。
労働公園は、雰囲気が日比谷公園とよく似ている。広さは日比谷公園の数倍はあるだろうか。
まだ朝の9時過ぎと言うのに、園内には還暦過ぎと思われる着飾った女性たちがいくつものグループをつくって、中国風の曲に合わせて踊っている。テレサテンが歌う中国らしい曲を思い出した。
別のところには、男女を問わずトランプをしている人たちが大勢いる。人数は数えることができないほどだ。トランプは麻雀と同様に中国人の手軽な娯楽なんだと思う。
さらに驚くことには、園内を散策する道の傍の至るところに、"結婚相手募集"の手書きのチラシが、数えることができないほど置かれている。側にはそのチラシを管理している、これも年配のおじさん、おばさんがいる。
その対象者は、60代や70代の男女が多いが、40代の見目麗しい女性の写真付きのチラシもある。チラシの出し主は、その人本人だったり、親御さんだったり。
中国は、老若男女皆んな、スマホの活用が長けているのだから、ネットで募集すればいいものをと思う。そのチラシには個人情報が満載で、日本では到底考えられない。
とにかく、朝早くからの活動や、年配になっても配偶者を探すと言う"中国人のバイタリティ"に脱帽だ。
10時、旅順に向かってホテルを出発する。土曜日のせいか、道は混んでいる。
1時間半近くかかって、ロシアの要塞であった東鶏冠山景区に到着する。
この鉄壁の要塞を、日本軍は多くの戦死者を出しながらも攻略し勝利した。銃弾の跡が生々しいが、日本軍はよくもこんな無謀な戦いをしたものだなと、その当時の日本人の精神構造の武士道精神に思いを致す。
ロシアからの観光客ではないかと思われるツアーが何組かいた。
何さんは、ロシアの観光客は、このロシアの要塞には来るが、水師営の会見所には行かないのだと。
水師営は日本の野戦病院だったところであり、その会見はロシアの降伏による会見だったのだから、そのようなところにロシアの観光客は行かないのだろう。
次に水師営を訪れた時、日本語が流暢な中国人の若いガイドさんが、会見所を説明してくれた。
彼女が言うには、ロシアの観光客は誰も水師営には来ない。ここは日本人オンリーが来る観光地であり、今週の観光客は私たちが最初だなんだと。
そのガイドさんは、説明の途中から、水師営の売店に売っている土産物を是非買っていってくださいと、急にセールスウーマンになった。
そんなこともあって、日本円で4,000円くらいで高かったが、昔日の旧満州の地図のコピーを1枚買った。外苑前の事務所に貼っておこう。
また、その土産物売り場には、なぜか日本の女優のポスターが売っていた。
ガイドさんはこれも売り物だと言う。当時のポスターで本物なんだと。私は「本物なら、売れたら売り物がなくなってしまうのでは?」と聞いたところ、まだまだ他の同じような売り物があるんだと。ほんまかいな。
ポスターの女優は、田中絹代、原節子、川島芳子、高峰秀子、水ノ江滝子、李香蘭、京マチ子、岸恵子の面々だ。
私はこれら女優さんを全て知っているが、そんな人間は私の年代で最後ではないだろうか。
二〇三高地には観光客は10人もいなかった。海抜203mの頂上にある乃木将軍の筆の"爾霊山の碑"の前に立って、旅順港を見下ろすことができた。
この頂上を攻略するために祖父は命をかけて戦ったのだ。そして、よくぞ生きて帰ってきてくださった。
祖父と私の人生を振り返り、「今日は、祖父に私の第二生のミッションを強く誓った1日になった」と思い、胸にジ〜ンと来るものがあった。
大連最後の夜は、"文ちゃん"と言う日本料理店で、ズワイガニと牛肉のしゃぶしゃぶを堪能した。
"文ちゃん"(中国語で"文匠")の経営者は大阪の泉出身の黒田さん。奥さんは中国人の文さん。黄さんの知人だ。
しゃぶしゃぶを鱈腹いただいて、やはり私は日本人だと思った。
大連の中華料理は日本の中華料理と違って味が濃い。それは"八角"のせいだと黒田さんは仰る。この八角が大連の中華料理には入っている。
黒田さんは、「団長も、1年も大連に来て大連の中華料理を食べていたら、八角なしでは美味しくないと思いますよ」と仰る。きっとそうなんだろう。
また、日本の中華料理は、上海や四川の中華料理を日本人の口に合うようにアレンジしてある。上海や四川は大連と違う。それだから、私の口には少し抵抗があったのだろう。
黄さんは、日本に来て10年、日本人の胃袋になったと言う。それでも、当然ながら、ふるさとの大連やハルビンの味にふるさとの味を感じている。そして、中国と日本の温かい架け橋になっている。
私がそんな胃袋になるまでにはあと何年〜何十年かかることだろう。
不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)
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