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応援の真髄と私の応援哲学

歳を重ねたせいだろうか。夕食を摂って19時を過ぎると急に瞼が重くなってくる。眠気が襲ってくるのだ。そして、その時刻に寝ると、翌朝は早暁の2時過ぎには目が覚める。布団の中でうつらうつらして、3時前には起きて徒歩2分の事務所に出かけていく。これが、昨今の私の日課になっている。
しかし、何か夜の行事がある時には、22時まで起きていてもどうと言うことはない。今月の16日に金沢で高校の同期会があった時も、七尾線の最終で能登部に帰り、徒歩40分かけて宿舎の"みおやの里"にたどり着いた。午前様になってしまったが、どうということはない。
心の思うままに生きていれば、幸せなストレスがない人生を送ることができると信じている。

今朝、「果たして今、私は能登にいるのか、それとも青山なのか」と夢の中で考えている自分がいた。「今日は旧帝大応援団の"七朋の集い"が東大駒場であり、幹事長の私が挨拶をしなければならないのに、なんで今、能登にいるんだ」と、そんなことを考えていて、飛び起きて、「あぁ、今、私は青山にいるんだ」と胸を撫でおろした。この前もこういうことがあった。

祖父が亡くなる前、寝床で「ぼう(私のこと)、川が何処から来て何処へ流れていくのか分からなくなってしまった。もうそろそろお迎えが来るのかな」と私に言ったことが思い出される。

私は生まれ変わってまだ2歳。まだまだこれから長い後半生があると思うのだが、果たしてどうなることやら。
そして、胡蝶の夢ではないが、夢と現(うつつ)のどちらも真実であり、私の能登と青山は一体になって、いずれも私のミッションに貢献してくれる”終いの住処”なのだと思う。
能登で青山を思う。青山で能登を思う。それは全て能登の復興・創生の応援であり、それに関わる(応援してくださる)人たちの応援に繋がる。

夢の中で胡蝶(蝶のこと)としてひらひらと飛んでいた所、目が覚めたが、はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも実は夢でみた蝶こそが本来の自分であって今の自分は蝶が見ている夢なのか、という説話である。
この説話は「無為自然」「一切斉同」の荘子の考え方がよく現れているものとして有名である。「無為自然」を荘子の言葉でいえば「逍遥遊」となり、それは目的意識に縛られない自由な境地のことであり、その境地に達すれば自然と融和して自由な生き方ができると荘子は説く。
荘子が他の説話において提出してきた「是と非、生と死、大と小、美と醜、貴と賤」などの現実において相対しているかに見えるものは、人間の「知」が生み出した結果であり、荘子はそれを「ただの見せかけに過ぎない」という。
(中略)
「その程度の小知ならば捨ててしまえ」という思想を端的に表したのが、この「胡蝶の夢」である。ここでは夢と現実との対立が提出されており、どちらが真実の姿か、それは問題ではなく、胡蝶であるときは栩栩然として胡蝶になり、荘周であるときは荘周となっている。そのいずれも真実であり、己であることに変わりはなく、どちらが真の世界であるかを論ずるよりも、いずれをも肯定して受け容れ、それぞれの場で満足して生きればよいのである。
「夢が現実か、現実が夢なのか?しかし、そんなことはどちらでもよいことだ」と荘子は言っているのだ。
「知」には何ら確かな判断はないのだから、考えたところで仕方がない。知の判断から離れてみれば、差異や区別を超えた世界が見えてくる。これこそが、荘子の言う「逍遥遊」の世界である。これが万物斉同の世界で遊ぶことであり、荘子が胡蝶の夢を通して訴えていることであると言える。
物の変化とは表面に現れた現象面での変化に過ぎない。胡蝶と荘周が形の上においては大きな違いを持ちながら、共に己であることに変わりはない。万物は絶えざる変化を遂げるが、その実、本質においては何ら変わりのないことを述べているのである。

そして、布団の中で”応援”について考える。
私が最初に”応援”と関わったのは、中学生の時だった。運動会でクラスを応援する応援団長に指名された。高校の時も、金沢大学附属高校と名古屋大学附属高校の対抗戦(旧制第四高校(金沢)と旧制第八高校(名古屋)の対抗戦)で応援団員として名古屋に出向いた。
本格的に応援に関わったのは、東京大学応援部に入部してからだ。
当時の東大応援部のメインの応援活動は、明治神宮球場での大学野球の応援だった。東京六大学野球で最下位が指定席になっている東大野球部を応援する。9割は負け試合だ。「こんな弱いチームをいくら応援しても応援のし甲斐がない」と思う反面、「応援の真髄とは、応援して試合を勝たせることにある。勝たせることができない応援は応援ではない」とも思う。そんな青臭い議論を同僚の応援部員たちと一献傾けながら意見を戦わせたものだ。

その時から、”応援の意味”を考え続けている人生を送っている。
応援とは、"援けに応える"と書く。人が困って助けてくれと言ったら、それに応えるのが応援だ。それでその人を助けたのなら、その人は、「ありがとう。あなたのおかげで助かりました。これからいい人生が送れます」と言ってくださる。その一言は、応援した者へのお礼でありプレゼントだ。プレゼントをいただいたら、こちらも「ありがとう」と言葉を返す。そのキャッチボールが応援の真髄ではないだろうか(勿論、社会人になったら一人立ちしなければならない。霞を食べて生きてはいけないから、ボランティアのベースにしっかりとお金を稼ぐと言うビジネスがなければならない。それが私の一番の弱点なのだが)。

社会人になって、銀行に入社し、「事業家・起業家を応援する銀行家になりたい」と思った。「決して銀行屋にはなり下がらない」、そんな想いで生きてきた。
バブルが弾け、銀行は全てと言っていいほど、銀行屋になり下がってしまった。サラリーマンの私では、その世界にいることは節を曲げて生きていくことになる。


ある切っ掛けがあって、44歳6か月の時、中途退職をした。それから七転八倒の人生が始まるのだが、稲盛和夫さんとの邂逅があり、「応援の真髄を追求して生きていこう」と思った。稲盛哲学を極めることは、私の場合、応援哲学を極めることである。

自利利他
情けは人のためならず
自分のためは人のため、人のためは自分のため
人は人のために生きる

応援すれば必ずそのお返しが、すぐではなくても、5年後かも10年後、30年後かもしれない。死んであの世に行ってからかもしれないが、必ず自分に返ってくる。
応援することが、それ自体が応援されることである。応援という行為は、本質的に人に見返りを求めるものではない。自分が応援することで、それだけで見返りがある。自分が自分を褒めてくれる。

応援の真髄を追求する応援哲学を極めていこう。

能登の応援は、私の最後の応援になるだろう。能登の復興と創生は10年くらいでは成し得ない、20年~30年はかかるだろう。30年だったら私は102歳になる。それまで現役で、能登の応援を続けよう。

”応援の心”を持って応援していると、いろいろな人が私を応援してくださる。鵜様の宿の道端弘子さんもそのお一人だ。私の能登の応援活動を応援してくださる。
私が誰かを応援していると、それと並行して誰かが私をお応援してくださるようになる。応援はキャッボールだから1対1なのだが、それが周りにどんどんと拡がっていく。周りに拡散していくのだ。応援の発展形だ、

”悪貨は良貨を駆逐する”と言われるが、その真逆に、”良貨は悪貨を駆逐する”のだ。この世は捨てたものではない。

人間はどうしようもない弱い動物だが、精神を鍛え、努力を惜しまず、真っすぐに人生を生きることで、その人の周りに集まる人は少しずつではあるが、善意の溢れた人たちに変わっていく。それが人を応援すると言うことだ。

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)

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