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戒名に相応しい人生を送る

古稀になって生前葬を執り行い、戒名を授かった。私の戒名は、「不動院重陽博愛居士」である。小林博重は俗名である。
私は戒名を授かって、仏弟子となった。授けていただいた戒名に恥じない人生、戒名を具現化する生き方をしなければならない。

戒名(かいみょう)とは

戒名とはお釈迦さまの弟子として戒法(仏弟子となるための約束事)をいただき、正式に仏教徒になった際にいただくお名前のことです。

法号(ほうごう)、法名(ほうみょう)ともいいます。

戒名をいただくということはお釈迦さまのお教え(戒法 かいほう)を授かることを意味いたします。

戒名は亡くなってからいただくものと思われている方も多いかもしれませんが、一昔前は生きているうちにいただく事の方が多く、戒名と戒法を自分自身の生き方の指針としました。

生きているうちからの信仰として、戒名をいただくことは仏教徒として正しい信仰生活をしていくうえでも大切なものになります。

仏弟子となることにより、生前から死後の世界まで仏さまが正しい道へお導きくださいます。

また、 古くは武田信玄や上杉謙信、斎藤道三などの戦国武将が生前から戒名を名乗っていたことは有名で、信玄や謙信、道三という名前は戒名を使用しておりました。

これは、当時はとても死というものが近かったために死に対する覚悟の印として、または自身の生き方を表すために用いたともいわれております。


不動院重陽博愛居士

不動院という院号は、祖父が授かった院号だ。
祖父は日露戦争のおり、旅順の203高地でロシアと死闘を繰り返した。鉄兜に銃弾が貫通したものの、祖父は生き延びて、ロシアに奪われた第9師団第7連隊軍旗を取り返した功もあり、金鵄勲章を受章する栄に浴した。
祖父は、「お不動様がお守りくださったおかげで今の命がある」と、ことあるごとに私に日露戦争のことを話してくれた。

昭和10年代に中能登町にある鷹王山長楽寺(高野山真言宗準別格本山)の眉丈山の中腹にお不動様が建立された。その建立の先頭に立って粉骨砕身したのが祖父だ。祖父の声掛けで、建立式には林銑十郎閣下(日露戦争のおりの上官、戦時内閣の内閣総理大臣)が来賓として中能登町に来てくださった。
私は、祖父にあやかろうと思い、不動院という院号を戒名に付けていただきたいと、瑞華院了聞の福井住職にお願いした。

福井住職は私に仰った。「重陽博愛居士の意味するところは、『小林さんの周りには、陽のエネルギーを持った心清く、心温かい人々が、大勢集まってきてくださる。その人たちを広く愛する、その人たちに愛を広める、そのような人になってほしい』と言う想いがあり、お釈迦様が重陽博愛居士というありがたい戒名を授けてくださったのです」と。

1月25日に能登・中能登を応援する[OUEN信念会]を開催するに当たり、私の戒名の意味を改めて思い起こした。

半世紀あまりに亙りご無沙汰していたふるさとの中能登町・能登半島を私が応援するようになるとは、これは祖父の導きだ。ふるさとを応援する、それが私の第二生のミッションになる。ありがたいことではないか。
多くの人たちがふるさとを離れ、花の都会で人生を送る。”ふるさとは遠きにありて思ふもの”がほとんどの人たちの人生ではないだろうか。

私は幼いころ、花の東京に憧れた。ちょうど日本は高度成長社会の入り口だった。フランク永井の”有楽町で逢いましょう”や、ふるさと能登出身の新川二朗が歌った”東京の灯よいつまでも”を聴いて花の東京に憧れた。

あなたを待てば 雨が降る
濡れて来ぬかと 気にかかる
ああ ビルのほとりのティー・ルーム
雨もいとしや 唄ってる
甘いブルース
あなたとわたしの合言葉
「有楽町で逢いましょう」

”東京の灯よいつまでも”

雨の外苑 夜霧の日比谷
今もこの目に やさしく浮かぶ
君はどうして いるだろか
ああ 東京の灯よ いつまでも

私は今、その花の東京(青山・外苑前)に住み、ふるさとの中能登(能登半島)にも住むという2拠点生活を送っている。
稲盛さんは「両極端を併せ持て」と仰るが、天は私にその環境を与えてくださった。次は、”大胆さと細心さの両極端を併せ持つ”懐の深い精神力を鍛えることだ。

おかげさまで、多くの人たちが信念会に集まってきてくださる。私一人では何もできない。凸凹の極みの私がバランスが取れた丸い球形になるには程遠いことだ。しかし、心清い、心温かい人たちの応援があって、ようやく夢を叶えることができる。
そして、援けられたら援け返す、応援のキャッチボールをすることだ。

不動院重陽博愛居士の戒名に恥じることのない人生を送りたいと思う。

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)



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