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「自分へのご褒美」について考えた。

今朝、めざましテレビで流れていた紙兎ロペでの一コマだった。

「自分へのご褒美」にとクレープを食べるアキラ先輩と、それを見ていたロペ。

詳しい内容は忘れてしまったけれど、アキラ先輩のご褒美の理由は「宿題がんばった」とか、一見たいしたことない、誰もが当たり前にこなすような何かだったと思う。

昨日もその前の日も、自分へのご褒美にと美味しいものを食べていた先輩に、
「ご褒美、多くないか」

「ご褒美って、もっと頑張った時のものだ」

とロペは諭す。

アキラ先輩とロペの「自分へのご褒美」へのハードルの高さの違いに自分はロペ派?アキラ派?…と、ふと考えてみた。

果たして、ロペの言う「もっと頑張ったとき」っていつのことなんだろう。

テストで100点取れたとき?

仕事で、大きなプロジェクトが成功したとき?

子供の寝かしつけや1日の家事をやり終えたとき?

人によって「自分へのご褒美」を与える時の基準はもちろん違うけれど、すこーし真面目なロペからすると、アキラ先輩のハタから見たら甘々と思われるような「自分へのご褒美」は理解しがたいんだろう。

そして、そのロペの姿は自分と重なった。

何か、人に自慢できるような、人に認めてもらえるようなことをやらなければ、「自分へのご褒美」はダメなのだ…と思っている自分が。

アキラ先輩の「自分へのご褒美」多め感は、確かに否めないんだけど、そんな風に自分を常日頃から認めてあげているアキラ先輩が正直うらやましかった。

そもそも「自分って何もできてないなー」だとか、「自分ってダメダメ人間だー」だとかが頭の中でグルグル回っちゃうような、自己肯定感低め且つ、認められたい欲求高めの、めんどくさい人種に属する私からすると、このアキラ先輩の思考回路と日常の一コマは、本当にリスペクトすべき案件だ。

「自分に厳しく、人に優しく」

自分を律する厳しさと周りに手を差し伸べる優しさを併せ持つことはステキだなと思う。でも、この言葉があるから、しんどくなるときもある。

だって、自分に優しくするタイミングがわからなくなるから。自分を認めることにハードルが上がるから。

自分に厳しくの捉え方が、我慢してなんぼ、耐えてなんぼ、追い込んでなんぼ…の世の中は、自分にとって居心地が悪い。

自分も含め、周りももっと、アキラ先輩ぐらい割り切って自分にベタ甘になったらいい。そして、その自分へのベタ甘っぷりを周りの人にも分け与えたらいい。もっともっと自分に甘くなって、自分に優しくなれたら、周りにも優しくなれるんじゃないかと思う。

朝、起きれたことがえらい。

「おはよう」「おやすみ」って笑顔で言えたことがえらい。

何なら、息してるだけでえらい。

満員電車に揺られての通勤、子どもを全力で追いかける親、お昼食べた後の睡魔が襲いかかる中の勉強…もう、こんなの神の領域と呼んでもいいレベル。

みんな、本当にがんばってると思う。頑張りすぎているぐらいだと思う。


話があっち行き、こっち行きしたけれど、

「自分へのご褒美」のハードルを下げよう。

そう感じた朝だった…て話。












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