キレる大人
週末、近所にある喫茶店で仕事をしていました。
しばらくすると、男性の怒鳴り声が聞こえてきました。
若い女の子の店員さんが「申し訳ございません」と頭を下げている。
何があったのか、詳細はわからないものの
「俺を睨んだ!」
「店長を出せ!」
「バカにするな!」
と悪態をついている、男性の身なりと立ち居振る舞い。
それに対して
「申し訳ございません」
と謝り続けている女性。
どう見ても、変な客に絡まれたとしか見えない。
最近、こういう「キレる大人」が多いです。
言いがかりを付ける大人も多いし、キレるパートナーに苦労している人も、なんて多いのだろう…と驚かされます。
今回は、そんな「キレる大人」について考えてみたいと思います。
”キレる”とは?
「キレる」とは、感情がコントロール出来ずに、突然怒り出すことを指します。
まるで意思を持った人間の理性が、勝手にキレてしまうかのように。
でも、本当にそうでしょうか?
理性が働かず、自分でも止められない激しい怒りで相手を傷つける、ということが本当にあるのでしょうか?
私は、そうは思っていません。
コントロールが効かないのではなく、あえて「キレる」ことを選んでいる、と思っています。
激情にまかせ、怒髪天をつく、コントロールが効かないような攻撃行動を、自分で選択しているのだと。
キレるメリットは?
では、なぜ人は「キレる」という選択をするのでしょうか?
それは、効果が高い、と思っているからです。
過去の経験から、大きな声で怒鳴る、威嚇するという振る舞いによって、何かしらの手応えがあることを、過去の記憶として持っているのです。
ほとんど無意識に、反射的に、行動しているかのように見えますが
刺激→感情反応
これはどうすることもできませんが
感情反応→行動
これは自分の意思で選択ができるのです。
すごく難しいですけどね。
でも、できるのです。
カッときて怒鳴り散らすことがデメリットが大きければ、人は怒鳴り散らすことはしないのです。
では、キレる人が手にするメリットとはなんでしょう?
それは、自尊感情であり、自己効力感です。
キレることで
「自分は正しい」
「自分は周りをコントロールできている」
と感じることができるのです。
ところが、キレることで手にする自尊感情ですから、焼け石に水です。
あっという間に、再び不安が襲ってくる。
しかも、今度は、周囲の刺さるような批判的な眼差しも加わるので、傷つきやすさが一層増していきます。
つまり、それくらい、日頃から自分に自信がない、自己否定感に悩まされているのです。
誰かが自分を嘲笑っているんじゃないか
否定し、批判しているんじゃないかと
心の奥底では、常に警戒し、パトロールしているのです。
そして、思う通りにいかない事態が重なると、不安がピークに達し、これまで慣れ親しんだやり方で、抱えられなくなった不安を「怒鳴る」「威嚇する」というカタチにして発散する。
こうやって悪循環にハマり、自らを追い込んでいくのです。
相手や周囲がどんなに傷つこうとも、知ったことではない。
それよりも、自分の受けた傷は大きいのだから、責任をとれ!と主張したい。
…というわけです。
正常を超えた興奮状態を自分で作り出し、一刻も早くスッキリしたくて、発散することを選択するのです。
加害者であり、被害者であり
ですので、最近「キレる大人」をよく見かけるのは、コロナによって失業者が増えたからとか、ストレスが増す時代になったからとよくいわれますが、本質はそうではありません。
そもそも、傷ついた自己を抱えて生きていたところを、時代の変化の中で、不安を抱えきれない場面に度々遭遇するようになり、そのことが露呈されるようになっただけなのです。
ただ、擁護するわけではありませんが、「キレる大人」をもっと深く理解しなければ、だた振り回されてしまうことになります。
理解するということは、背景を知ることです。
「キレる大人」は、ある意味、被害者です。
幼少期に、心を乱暴に扱われたことがある、被害者の一面を持つことが多いのです。
ここで、よくある「しつけ」について、整理しておく必要がありますね。
そのためには「叱る」と「怒る」の違いを知っておきましょう。
叱る:相手のため。相手が成長できるようにするため。
怒る:自分のため。自分の不快感情をすっきりさせたいため。
「キレる大人」は、育つ段階でたくさん傷つき、そのままケアされずに放置され、独自の心を守る方法が「キレる」だったという可能性もあります。
その場合、幼い頃に嘲笑われる経験で傷つき、否定され、批判されて、胸が潰れそうになるくらいの悲しい経験を積んできただけでなく、その経験を力に変えるための、傷ついた心を優しくケアされる経験がなかったのかもしれません。
そして、その痛みを一番よく知っているはずなのに、同じように人を傷つけ、自分は悪くないと主張する側になってしまう。
たとえ、相手が自分の愛しいわが子であっても、です。
なんという悲劇でしょう。
歪んだ成功体験
更に、危険だなと思うのは、そういう人たちが、この不安が蔓延する時代の中で「自分を正当化する」という、ある種の成功体験を積みやすくなっているのでは?と感じることです。
誤った経験を積みやすくなっており、その結果、更なる悲劇を生みやすい土壌が、醸成されているのでは?という危機感です。
安定した、明るい時代であれば、ゆとりが生まれ、優しさや受容に包まれる体験も自然と増えるでしょう。
でも、今は不安定で、先の見通しが見えにくい時代です。
不安がいつも付きまとい、世の中全体が、思う通りにいかないことが重なりやすくなっていて、ただでさえマイナスの体験を積みやすくなっているのです。
感情処理に苦手さを持つ人にとっては、とても苦しい時代です。
中でも「キレる」人は、不安を抱えられず些細なことがきっかけで、周囲に怒りを撒き散らし、最後は、お決まりの「自己正当化」を振りかざす。
「自分が正しい」と自己を正当化し、正しいと感じること以外は、耳を貸さなくなる。
聞きたくないことは耳を塞ぐ。
見たくないものは目を閉じる。
知りたくないことは無関心になる。
その結果、分断を生み、孤立を生んでいく。
傷を受けた者が、更なる傷を増やし、孤立し、恨みを抱える。
それが、身近な家庭や学校、地域社会でも起きるとしたら、悲しいことです。
解決策は自己との誠実な対話しかない
心に傷つきを抱えた人たちが取り組むべきことは、傷ついた自己との対話です。
それしかありません。
傷ついた自分とちゃんと向き合い、涙が枯れるまでしっかり泣き、そしてそんな自分を心から慰め、抱擁することです。
そして、信頼できる人に、弱々しい自分を抱擁してもらう体験を積むのです。
本当に強い自分でありたいのなら、一方で、本当は弱い自分を見せて、しっかりと受け止めてもらう体験を積まなければいけません。
そのためには、根深く刻み込まれた人への「不信感」を、克服するしかないのです。
アンガーマネジメントをいくらやっても、対症療法でしかありません。
「キレる」機会を減らす効果はあるかもしれませんが、それは、本当の癒しにはなりません。
感情の手綱をしっかりと持つ一方で、自分の中に大きく存在感を増し続ける、自分でも取り扱えない「不安と怒りに震える自分」を癒す挑戦をしていかなければならないのです。
キレる子どもを論じる以前に、キレる大人の理解と手当てが、必要なのかもしれません。
鶯千恭子(おうち きょうこ)